「温もりを知ったから」
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翌日。
暗雲が張り付いた空からしとしとと陰鬱な雨が降り続いていた。
葬式会場の玄関前に黒や透明のビニール傘をさした人が連なっている。
私は端の方でそれを眺めていた。
扉が開きっぱなしになっているせいか、ここは湿度が高くジメジメと空気が重い。
葬儀には地元の知り合いや、弟の友達も参列していた。
私が知っている人は片手で数えられる程度。
弟がどんな学校に進学したのかも知らない。
本当に私は何も知らないのだなと、息を殺して空気に溶け込む様に顔を伏せる。
式が始まると親族である私は否応無く最前列に並んで座った。
只々、時間が過ぎるのを待つ。
隣でハンカチを顔に当てて泣く母の声を聞きながらぼーっと遺影を眺めた。
記憶の中にある弟の姿を思い浮かべると、写真の青年に違和感を覚える。
何も感じない。
強いて言うなら、あまり親しくもなかった知人が死んだ程度の感覚だった。
両親の私と弟に対する扱いの違いに長く嫉妬していたせいもあるのかもしれないが、弟が死んで涙一つ見せない私は非情だ。
背後から嗚咽が聞こえてきて更に居心地が悪い。
私は極力背を丸め俯き、足先を見るのに集中した。
* * *
長い一日を終え、実家に帰って来た頃には外は暗くなっていた。
遅くなってしまったが、今日はもうここに泊まる気はない。
一刻も早く立ち去りたかった。
荷物をまとめた大き目のリュックを持つと居間へ向かう。
引き戸を開けると遺骨を眺める母と、壁にもたれ何処か遠くを見つめる父が座っていた。
屋根を叩く雨の音さえ煩く聞こえる程に部屋の中は静まり返っている。
声を出すのに躊躇した。
でも黙って帰る訳にもいかない。
私は深く息を吸い込み口を開いた。
「帰りますね。」
その言葉に反応し母はゆっくりと振り返った。
目があっているのに返事がない。
振り返ることはないと思っていたので正直戸惑った。
「…お母さん?」
黙ったまま感情のない目を向けられて、それに耐えられず呼びかける。
「どうしてあの子なの……」
震える弱々しい声だったが、はっきりと聞こえた。
「あの子は、とても良い子だったのよ……なのに何で。どうして、どうしてあの子なのよ!……あなたなら良かったのに!!」
徐々に声を荒らげ叫ぶように言い終えると、母は涙を浮かべた鋭い目で私を睨みつける。
「あなたなんかっ」
そう言って掴みかかる勢いで立ち上がった母を、流石の父も見兼ねて止めに入ってくれた。
「母さんやめないか。」
殴られはしなかったものの、心はグシャリと音を立てて潰れた。
あぁ、この人は弟じゃなく私が死ねば良かったと言っているんだ。
代わりに死ねばいいと思うほどに私が憎いのだ。
必要とされていない。
愛されてない。
私は産まれてくるべきじゃなかった。
わかっていたそんなこと。
とっくの昔にわかっていたのに。
こんなにも、息が止まるほど胸が痛いなんて。
頭の中がチカチカして目頭が急激に熱くなり視界が歪む。
潰れた心から血が滴るように、頬を伝いぽたぽたと畳を濡らした。
父に抑えられながら尚も、私へ憎悪の視線を送り続ける母。
硬直して動かない体。
その刺す様な視線から目を逸らせずいると、突然上から黒いものに視界を遮られた。
背後に気配を感じ心臓がビクッと飛び上がる。
耳元にサラっと何かが触れ、囁かれる私だけに聞こえる声。
「遅くなってごめん。」
なんで…
痛くて痛くて、どうしようもなく苦しかった心が、ふわりと掬い上げられる。
止めどなく流れ出ていた血が止まっていく気がした。
「名無しさんの事をちゃんと知ろうともせずに、そんな風に言うのはやめてもらえますか?」
「貴方誰なの!?不法侵入よ!!」
母の狼狽した声が響き渡る。
きっと知らない男の登場で戸惑っているのだろう。
「僕は五条悟名無しさんの恋人です。彼女を迎えに来ただけなのですぐに帰ります。」
「こ、恋人!?」
父の上擦った声が私の声を代弁してくれた。
何言ってるの五条さん。
勝手にこんな所まできて、恋人なんて噓までついて。
私は困惑しながらもこの状況をどうにかしなければと口を開きかけたところで、五条さんが先に話始める。
「外で待っているつもりでしたが、恋人をそんな風に言われては黙っていられません。いくら親でも言って許されない事があります。」
いつものふざけたお調子者の五条さんではない。
しっかりと落ち着いた威厳のある喋り方だ。
両親も五条さんの醸し出す雰囲気に気圧されたのか押し黙った。
「名無しさんは呪術師として身を挺し、たくさんの人を救っている立派な子なんです。努力家で思いやりがあって、人の痛みもわかる聡く優しい子です。」
頭の上から次々と降ってくる五条さんの言葉に胸がギュッと苦しくなる。
「僕は名無しさんを産んでくれたお母さんに感謝しています。だからそんな事、言わないであげてください。」
なんで……そんなこと五条さんが言うの。
止まっていた涙がポロポロと零れだす。
五条さんの言葉が、気持ちが、行動が。
堪らなく嬉しくてどうしようもない。
私の荒れ果てたボロボロの心が、いつの間にか澄んで穏やかになっていた。
視界を遮っていた五条さんの手が降ろされると、母は顔を両手で覆い膝から崩れ落ちていく。
体を小さくしてむせび泣く母に、どうするべきなのか分からなくて固まる。
その涙は一体何なのか……
父が母の隣に跪き震える肩を抱き寄せる。
私は息が詰まって小さな声でごめんなさいと謝ると、五条さんの手を握って逃げる様に家から出た。
畦道を傘をさし沈黙の中歩く。
アスファルトで整備された等間隔に街灯が設置された下道へ出ると足を止めて振り返った。
「どうして来たんですか……」
私の頭の中は何故とかどうしてとか、そんな疑問たちで埋め尽くされていた。
「新幹線の中で、昔の事を思い出した名無しさんの顔がツラそうだったから心配になって。」
そんなことで……普通はこんなところまで来ないよ。
私は傘を持った右手にギュッと力を入れる。
「なんで、恋人なんて噓ついたんですか。」
「だって、その方が迎えに来たって信憑性が出るでしょ?」
五条さんは本当に勝手な人だ。
勝手で強引で、優しい……
「五条さん……」
ん?っと五条さんは私の言葉を待つ。
「…ありがとうございます。」
私は震える唇で一生懸命に笑顔を作った。
暗くて五条さんの表情は良く分からなかったが私の気持ちは伝わっただろうか。
そう思いながら見上げていると、五条さんは自身の傘を捨てて手を伸ばし、私の手を取りグッと胸へ引き寄せた。
「ご、五条さ…」
「泣きたい時は我慢するなよ。」
背中に回された五条さんの腕に力が籠る。
「泣いていい。」
酷く優しい声。
我慢して止めていた涙が再び滲み出てくる。
堰を切ったようにどんどん溢れてくる。
私は五条さんの腕に包まれながら、子供の様にわんわんと声を上げて泣いた。
何度も何度も、私が泣き終わるまで五条さんは大きな手で頭を撫でてくれた。
五条さんの匂いに鼻を埋めて。
手から伝わる体温を感じて。
身体を流れる鼓動を聞いていた。
心地良い。
「五条さん。」
「うん?」
「ありがとうございます。」
大の大人が顔をぐちゃぐちゃにして泣いて、実に情けない姿だろう。
だけど今はそんな事どうでも良かった。
五条さんはそんな私を見て微笑むと、頬を流れる涙を手の平で拭ってくれた。
「何があっても名無しさんの味方だって言っただろ?」
二ッと歯を見せて笑う五条さんに釣られて、私の頬も緩んでいく。
五条さんはたくさんの言葉をくれた。
嬉しくてどう感謝の気持ちを伝えればいいかわからない。
私の中で五条さんの存在が怖いほどに大きくなっている。
もう止めることのできない程に。
急速に。
東京行きの電車には間に合った。
並んで座って揺られている内に睡魔に襲われ、うつらうつらと頭が動く。
泣きすぎて疲れた。
あんなに泣いたのは初めてだ。
今思うととても恥ずかしい。
チラリと横を見ると、サングラスの横から長い睫毛に縁どられたアクアブルーの瞳が光る。
「ん、どうしたの眠い?」
落ち着いた声と柔らかい表情を向けられ、それだけで心臓が飛び出そうな程ドキッとしてしまった。
恥ずかしくて、はいと俯く。
「いいよ寝ても、着いたら起こしてあげる。あ、肩使う?可愛い名無しさんちゃんには大サービス。」
重たくなる瞼に耐えられず、お言葉に甘えてありがとうございますと言うと、肩には届かなかったが腕に頭を預け欲に任せて眠りに落ちた。
* * *
自宅に入ると一日帰ってこなかっただけなのに随分と懐かしい気がした。
明日は休みになっていたが、これ以上迷惑をかけたくなかったので通常通り仕事をすると伊地知さんへメールしていた。
ゆっくりしていられないとすぐにお風呂に入り、寝る準備を進めていく。
お腹は空いていないので省略する。
向こうに帰ってからずっと食欲がないのだ。
五条さんは家に着いただろうか。
今度ちゃんとお礼しないとな。
そんなことを考えながら歯を磨く。
鏡に映る自分の顔を見て、泣きすぎて腫れている目に触れた。
五条さん……
そう心の中で呟いている自分にハッとした。
ダメだ、頭の中が五条さんでいっぱい……
私おかしくなったかも。
口を濯ぐとドキドキしていた鼓動が少し収まった気がした。
取り敢えず目を冷やそう。
そう思って冷凍庫から保冷剤を取り出し、ハンカチで巻いて瞼の上に乗せベッドへ横になった。
長い長い一日が終わって、疲れがピークに来ていたのか私はそのまま眠ってしまった。
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