「温もりを知ったから」
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タクシーで揺られること1時間。
やっと目的地の温泉施設へ到着した。
伸びをしている五条さんの後を追いながら、空腹を感じ何か買ってくるべきだったと後悔した。
時刻は12時を回っている。
「帳、下ろしてくれる?ちゃっちゃと片付けてくるから外で待ってて。」
「…え?」
実質、戦力外通告。
私はその為だけに連れてこられたの?
補助監督で良かったじゃん。
と言うか自分で下ろして?
頭の中であれこれ考えている間に五条さんは施設の中へと消えて行った。
流石に酷い。
私は長い溜息を吐くと片手を上げて帳を下ろした。
周りには何もないし、する事ないし、暇だし。
大きな駐車場の周りは森に囲まれていて、施設の名前がラッピングされた3台のバスが並んでいる。
営業していたら送迎があったのだろう。
炎天下の中蝉の大合唱が頭に響いて、待ってもらっているタクシーに戻ろうかとも考えたが、先輩が仕事をしているのに後輩である私が快適に過ごすのも気が引けた。
仕方なく木の影で待つ事にして移動すると、影に入ってまだ1分も経っていないのに帳が消えた。
余りにも早すぎて開いた口が塞がらない。
「おっまたー」
手を振りながら颯爽とこちらに歩いてくる五条さん。
仕事の早さが異次元過ぎて恐怖すら感じる。
「早すぎません!?」
「まぁ僕最強だから。」
ニヤリと口角を上げる五条に拍手を送りたくなったのはこの時が初めてだ。
「さ、暑いし早く帰ろう!」
「…そうですね。」
私は額から流れる汗をハンカチで拭うと、駐車場で待つオアシスへ向かった。
元来た道を折り返し進むタクシーの中で、タブレットを操作して先程の呪霊の話を聞きながら報告書を作成する。
「あの、五条さん。」
「なに?」
「この時間なら東京帰れますよね?」
「帰れちゃうね〜、でもダメだよ。ホテルの当日キャンセルはお金かかっちゃうから。」
にこりと微笑む五条に言い返せず黙り込む。
この人確信犯だな。
「たまにはさ、のんびりしようよ。」
ね?と言われてしまうと、今週の疲れを癒すには丁度いいかと都合良く納得してしまった。
「めちゃくちゃいいところ予約したから期待しといてー」
グーと親指を立てる五条がおかしくて顔が緩む。
なんか。
デートみたいだなと思ってしまったのが災いして、赤くなった顔を隠すため窓の方へ顔を背けた。
この間から五条さんの様子が変な気がする。
強引だけど優しいし。
前はこんなにも話しかけて来なかった。
と言うか殆ど関わりもしなかった。
パンケーキ屋から始まって、怪我をした時も心配して駆けつけてくれたし、今日も仕事と言いながら無理やり休ませようとしてる。
一体何がしたいんだろう。
考えれば考える程、五条さんのことが気になってくる。
嫌いだったのに。
タクシーは五条の指示通りホテルに向かっていた。
目的地が近づき窓から確認すると、外観からでもハイクラスと窺えるホテルが見えて軽く眩暈がした。
「五条さん、もしかして今日泊まる所はアレですか?」
遠慮がちに指さすと、景気よくご名答と返され一瞬体が固まる。
そう言えばこの人ボンボンだった。
タクシーの運転手にお金を払い領収書を切ってもらって、着替えが入った大き目の鞄を肩に掛け五条の後ろを付いていく。
ロビーの天井は高く、ぶら下がったシャンデリアが、日の出に照らされた樹霜の様に輝いている。
豪華な内装に足を止めてぐるりと一周見渡す。
場違いな気がして身を縮ませるとチェックインを済ませた五条がカードキーを手に戻ってきた。
ロビーに入った瞬間に清潔感のある美男子に鞄を渡していたので、ほぼ手ぶらでエレベーターへ乗り込む。
艶のある髪を纏めたタイトスカートを着こなすCA風の女性が、最上階のボタンを押すところを見てしまった。
いよいよ吐き気がした。
部屋の前に着くと五条はここでいいと女性を下がらせて、カードキーを差し込み扉を開く。
もう思考も追いついていないし声も出ない。
私の家よりも遥かに広い部屋は、何から何まで豪華で大きな窓からは海と山が見下ろせる。
「これ名無しさんの部屋の鍵ね、僕は隣だから。」
そう言って先程使ったカードキーを手渡され、状況についていけませんと言葉を漏らす。
「スイートルームを二部屋取った。」
真面目に説明されてそういう事じゃないんだけどなと思いながら質問する。
「こんな所に泊まって大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫!上の奴らに経費で嫌がらせしてんの。」
「五条さん…ヤバすぎです。」
「褒めるなよ〜照れるだろ。」
いや、褒めてない!
私は心の中で盛大にツッコミを入れた。
「ところでさお腹減ってない?」
それどころじゃなくて忘れていたがお腹は減っていた。
減ってますと素直に答える。
「三階にレストランがあるから行こう。」
このホテルに着く前に確認したが、周りには大自然が広がっているだけで何もなかった。
私はコクリと頷くとレストランへ向かった。
開放的な空間に適度な距離感でテーブルが並んでいて、時間帯もあってかティータイムを過ごしている人ばかりだった。
席に案内されてハードカバーのメニューを受け取ると恐る恐る中を確認する。
日本語、英語、中国語で上から順に記載された料理名は、ランチだからか何となく私でも想像できた。
無難なクリームパスタを注文して一息吐く。
菊の様な模様が彫られたグラスに入った水を飲むと仄かに柑橘系の香りが鼻を抜ける。
「もしかして名無しさん緊張してる?」
「緊張してますよ。いきなりこんな所に連れて来られて、事前に言ってください。」
「だって先に言ってたら僕の事止めるでしょ?」
まぁ確かに。
嫌がらせと言えど少々やり過ぎな気がする。
極上のクリームパスタを食べ終え食後のホットコーヒーを飲んでいると、黒のベストにソムリエエプロンを着用した男性がテーブルの上にアップルパイを置いた。
それは五条さんが注文したもので、フォークで口に運ぶだけの所作が絵になる。
「うん、美味しい。」
笑顔の五条さんと目が合って悪夢がフラッシュバックした。
「名無しさん。」
「…はい。」
「あの時はごめん。」
予想とは180度異なる言葉に目を見開く。
「名無しさんが可愛くて、つい意地悪しちゃった。」
信じられない。
五条さんがこんなこと言うなんて。
「何か試してますか?」
訝しげな目を向けると、ははっと笑われた。
「試してない。ただ名無しさんの…」
私の?
続きを待ってみたが五条さんは私の目を見つめるだけで、そのまま話を終わらせてしまった。
ディナーの19時まで自由時間となり部屋に戻ると、あらゆる扉を開けてルームツアーを楽しんだ。
お風呂にはジャグジーまで付いていて景色も良かったので、夕方から優雅にバスタイムを過ごす事に決めた。
アメニティを確認すると、高級そうなボディーソープと並んで入浴剤が準備されている。
ほんと五条さんに感謝。
私は冷蔵庫で冷えたミネラルウォーターを手に浴室へ向かった。
* * *
体裁を考えてひざ丈の黒のワンピースへ着替え、エレベーター前のソファーに座り五条さんを待つ。
シンプルで無難な色の服を持ってきていて良かった。
「早いね。」
角を曲がって現れた五条さんは白のYシャツに黒のパンツ姿で、どこからどう見てもカッコいい。
昼と同じフロアに来ると、随分雰囲気が変わっていた。
「ここビュッフェスタイルなんだ。」
「そうなんですね。」
「結構評判も良いから美味しいと思うよ。」
案内を待つ間に教えてくれた五条さんに、連れて来てくれてありがとうございますと頭を下げる。
「お礼なんていいよ〜経費だし。」
ふざけた様に言った五条さんだったが、少し照れているのか首の後ろに手を当てていた。
宝石の様に盛り付けられた料理はどれも文句なしに美味しかった。
大小様々なグラスに入ったカクテルは青や赤と色鮮やかで、結婚式のウェルカムドリンクを彷彿とさせる。
果実の入った白ワインを手にして向かいに立っていた男性に部屋番号を伝えると席へ戻った。
「どう、気に入った?」
「はい。」
すごく楽しい。
この現実味のない空間と美味しいお酒のせいで気分がフワフワしていた。
「あれ…五条さん顔赤くないですか?」
目の下から耳にかけて林檎の様に赤い。
肌の白さもあってか良く目立っていた。
「何だろう、頭がクラクラするんだよね。」
テーブルを見ると半分ほど飲んだ淡青色の飲み物が置かれている。
「もしかしてお酒に弱いですか?」
「んまぁ〜。」
サングラスがずれて見えたトロンとした瞳に心臓が悲鳴を上げた。
これはまずいんじゃないか。
「五条さん大至急部屋に戻りましょう。」
腕を掴み無理矢理に立たせると、ふらついている五条を支えレストランを出る。
エレベーターを降りた頃には半分以上の体重を乗せられ必死に歩いてやっとのことで部屋の前へ着いた。
「五条さんカードキーはどこですか?」
「…」
多分パンツのポケットの中だけど勝手に触るのも憚られる。
散々悩んだ挙句、一旦私の部屋のベッドへ寝かせる事にした。
ミネラルウォーターを持って横になった五条さんを覗き込む。
「五条さん、お水飲めますか?」
顔を赤くして少し潤んだアクアブルーの瞳で見上げてくる姿に、看病した日の事を思い出していた。
上半身を起こす補助をしてキャップを外した水を手渡す。
ゴクリと音を立てて水を嚥下していく妖艶な姿にドキッとして、私は目を逸らした。
キャップを閉めてサイドテーブルへ置くと、取り敢えず五条さんの酔いが醒めるまで待つことにした。
ソファーに移動しようと立ち上がるとグッと手首を掴まれる。
「どこ行くの?」
「どこにも行かないですよ。」
不安そうな表情はあの時と同じ。
揺れる五条の瞳に吸い込まれそうになって、視線を外そうとしたところで手を引かれ体勢を崩す。
頭の後ろに大きな手が添えられていることに気付いた時には、視界一杯に五条さんが映った。
柔らかいものが唇に触れ、ひんやりと冷たいヌルりとしたものが口の中に侵入してきて体が強張る。
「んんっ」
逃げ出そうと手に力を入れるもビクともしない。
後頭部を抑える手と、手首を握る手は強引なのに吸い付くような口付けは優しい。
頭の芯から溶けていく感覚に力が抜けて、私は五条さんの上に倒れ込んだ。
味わうように何度も何度も唇を合わせてくる五条さんに、もう抵抗が出来なくなって諦めて目を閉じた。
漸くして顔が離れた頃には私と五条さんの間にツーっと銀色の糸がつながっていた。
見下ろした先の熱の籠った二つの蒼に声を発する事ができない。
「ど…して………れないの。」
「…え?」
キスの余韻で頭は霞がかっていて、五条さんの言葉が理解できない。
「七海にはあんな顔をするのに……どうして僕には見せてくれないの?」
あんな顔って?
五条さんは何を見たの?
「笑顔が見たい。……笑ってよ名無しさん。」
数々の不可解な行動の意図が、今やっとわかった気がした。
そう言うと五条さんは広い鍛えられた胸に私を閉じ込めて、優しく抱き締めた。
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