「温もりを知ったから」
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あれから名無しさんは話し掛けても全然喋らないし目すら合わせてくれない。
少しやり過ぎたかなと思いながらも、茹で蛸のように照れた顔があの時の様に新鮮で、またしても高揚感に包まれていた。
僕の一挙一動で表情を変える名無しさんが面白くて気分が良い。
店を出るともうすぐ13時になるところで、解散するには早いなと先を歩く小さい背中を見た。
「名無しさんこの後どうする?」
「帰ります。」
やっと言葉を発したかと思うと、いつもよりワントーン低い声と併せて目に角を立てて見上げてきた。
かなり怒っているようだが全然怖くない。
むしろ…
「可愛い。」
ハッとし口元を手で覆うと、はいと疑問符を添えて名無しさんは首を傾げる。
呟いた声は名無しさんに聞こえていなかった様でホッと胸を撫で下ろす。
「五条さん聞いてますか?私は帰りますよ。」
「あぁ、うん聞こえてるよ。じゃあ家まで送る。」
「結構です!」
「そう?なら駅まで。」
そう言うと渋い顔をしながらもわかりましたと名無しさんは了承した。
来た時とは違って僕の前を歩く名無しさん。
後ろ姿からも機嫌が悪いことが伝わってきた。
出会ってから比べると随分感情を表に出すようになったと思う。
初めて会ったのはいつだったか。
記憶を辿るも思い出せない。
それ程意識していなかったという事だろう。
なのに何故か今は気になって仕方ないのだから不思議だ。
名無しさんの瞳に僕が映っていることが嬉しい。
「名無しさん。」
僕の声に振り向くと冷たい目で見上げてくる。
「怒ってる?」
「かなり。」
「そっかぁ〜」
堪らなくなってつい眼の下の筋肉が緩む。
それが気に入らなかったのか、信じられないと言う顔をして眉を寄せるとフイっと背を向けて歩き出した。
僕の事で頭がいっぱいになったらいい。
そう思いながら、忙しく足を動かす名無しさんの後ろをゆったりと付いて歩いた。
* * *
家のリビングに入ると薄ピンク色のラグの上に力なく座り込んで、ドサっと音を立て顔をベッドへ埋める。
あれから五条さんは、私が不機嫌に黙ったままなのを気にも留めずにひとりで喋り続け、渋谷駅まで送り届けると何事も無かったかのように帰っていった。
なんなの?
絶対嫌がらせだよね?
距離置いてるとか、配慮に欠けるとか、失礼な事を言ってしまったから怒ってる?
あの顔は私の醜態を見て完全に楽しんでいた。
パンケーキ屋での"あーん事件"を思い出して再び赤面する。
恥ずかしくて死にそう。
もう無理だ。
七海さんに連絡しよ。
私は鞄からスマホを取り出すと履歴の一番上に表示された七海健人を選択し電話を掛けた。
こういう時の呼び出しコールは長く感じるなと思いながらドキドキしていると、コール音が止まり電話の向こうから落ち着いた声でもしもしと聞こえてきた。
「お疲れ様です七海さん。今、お時間大丈夫ですか?」
『少しだけ待ってもらえますか?1分で片付けますので。』
七海さんはそう言うとミュートにしたのか電話の向こうが無音になった。
任務中だったのかなと申し訳なくなる。
先にメッセージを入れておくべきだったと後悔するも、もう遅い。
そんな事を考えていると、お待たせしましたと七海の声が耳に入ってきた。
宣言通りちょうど1分。
七海さんらしいなと少し顔が緩んだ。
「任務中でしたか?」
『はい、雑魚だったのでお気になさらず。』
「ありがとうございます。」
『どうしました?メールではなく電話と言うのは珍しいですね。』
「七海さんの声が聞きたくなってしまって…」
そう口にして私は彼女でもないのに何を言ってるんだと恥ずかしくなった。
『…そうですか。……今日でしたね五条さんとの食事。』
私が黙っていると七海さんは気を遣ってくれたのか話を振ってくれる。
「はい、さっき帰ってきました。あの、七海さん…」
『はい。』
「私、五条さんにすごく嫌われているみたいなんです。たぶん、気に障る事を言ってしまったからだと思うんですけど。でもどうしても謝る気にはなれなくて、どうしたらいいですかね…」
途中からこんなことを七海さんに相談してどうするんだ、困らせてしまうだけだと思いながらも、話し始めてしまった以上言い切るしかなくて。
私は返事のない七海に不安になり、七海さんと身の縮む思いで声を掛けた。
『嫌われてはないと思います。寧ろななしさんは五条さんに好かれているでしょうね。ですので謝る必要もありません。』
「えっ!?でも、嫌がる事を平気でしてくるんですよ?」
『あの人はそう言うところがありますから。……今は解決できないと思います。』
「そう、ですか。」
七海さんが言うのだから諦めるしかないのか…
今は解決できないって五条さんが私に飽きるまでという事なのかな。
『こちらとしても迷惑な話です。』
現に今も七海さんへしわ寄せが来ているので迷惑だと言われても仕方の無い事だが、本人から言われると少し胸が痛んだ。
「すみません。」
『そういう意味で言ったのではありません。』
「え?」
ではどういう意味で言ったのか、珍しく七海さんの話を理解できなくて戸惑う。
『結果として、こうしてななしさんの声を聞くことができたので相殺と言うことにします。』
話を進める七海に意味を確認するのも躊躇われたので、そのまま鵜呑みにする事にする。
『ところで、嫌がらせとは具体的にどの様な事ですか?』
「え?」
聞かれると思っていなかったので焦ってスマホを落としそうになった。
例えば。
ベッドに引きずり込まれて卑猥な事を言われたとか。
お礼と偽ってパンケーキ屋へ連れて行かれ公衆の面前で醜態を晒されたとか言えばいいのか?
どうしよう、言えない。
七海さんには言いたくない。
考えれば考える程追い詰められて手の平がじんわりと汗ばんでくる。
『…今の質問は取り消します。』
「へ?」
随分と間の抜けた声だったと思う。
『私もゆっくりしていられませんね。』
電話口から聞こえた七海の言葉が酷く小さくて、聞き間違いかもしれないと困惑し反応できずに押し黙る。
『念の為、一つ言っておきます。』
「はい。」
『昨日ななしさんの事を大切に思っていると言いましたが、あれは単に後輩だからという意味で言ったのではありません。』
「……え?」
『一人の女性として大切に想っているという意味で伝えました。』
えっと、それはどういう意味?
一人の女性として?
今日はやけに七海さんの言葉が理解できない。
『言っておきたかったのはそれだけです。』
一人の女性として大切?
女性の中の一人として大切?
その言葉が頭の中でグルグルして、後の話が全然入ってこない。
深読みしすぎて頭がパンクしそうだ。
『五条さんには私から止めるよう言っておきます。大して効果はないと思いますので期待はしないでください。』
変わらず冷静過ぎる七海さんにひとりオロオロしながら落ち着け私と念じる。
「あ、ありがとうございます。すみません面倒をお掛けしてしまって…」
『いえ、お気になさらず。猪野くんが来たようです。』
「は、はい!では、また。」
『はい、また連絡します。』
その言葉でとうの昔に電話は切れているのに、スマホを耳から離せずにいた。
浅い呼吸を繰り返し、普段よりも早く脈打つ鼓動で急激に血が体中を巡り意識がぼやーっとする。
一人の女性として私を大切に思っているというのは、つまり、好きという事?
七海さんが私を好き?
いや、でも大切=好きなのかと言うと必ずしもそういう事ではないし。
七海さんは私の出方を試しているのか?
私は、んーんーと唸りながらまだ冷えていない頭で一生懸命に理解しようとしていた。
私は七海さんの事が大好きだ。
それは恋愛感情としてなのかと聞かれれば、そうなのかもしれない。
だけどもし、七海さんの言う大切が好きじゃなかった場合、とんでもない自惚れ勘違い女になってしまう。
モヤモヤと心が晴れず、もどかしく思いながらもキャパオーバーを感じて私は考えるのを止めた。
五条さんで悩んでいたのに、七海さんでも悩む事になるなんて。
私は気持ちを落ち着ける為にもお湯を沸かして紅茶を淹れることにした。
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