「温もりを知ったから」

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灰色の分厚い雲に覆われた空から篠突く雨が容赦なくアスファルトを叩き、膜が掛かっているかの様に雨水が地面を滑って側溝へと流れていく。








生憎の天気で気分が重かったが、報告書の提出と少し広いところでトレーニングがしたくて、名無しさんは高専へ向かっていた。







昨日の内に伊地知さんへ連絡を入れてある。






傘に雨粒が当たる音を聞きながら階段を登り、やっと校舎に着いた頃にはズボンの裾が濡れ色が変色していた。






気持ち悪さを感じ、着いて一番に更衣室へ行くと持ってきていた服に着替えて濡れたズボンをハンガーにかけロッカーの中へ吊るした。





流石にジャージ上下だと恥ずかしさを感じるので、下はジャージ、上は白のTシャツにパーカーを羽織ってパソコンを使うために教員室へ向かう。






校舎の中はやけに静かで、元々人数の少ない生徒たちが出払っているのかもしれない。







そんなことを考えながら目的地に着くと、案の定教員室にも誰も居らず、フリーになっているパソコンを起動させる。






まぁこの部屋が開いているなら誰かしらは居るんだろうなと思いながら、報告書作りに集中する為学校に入るまでにコンビニに寄って買っておいたコーヒーにストローを刺して準備する。






私は専用のパスワードを入力すると、昨日の報告書を作成するべくパチパチとキーボードを叩き始めた。


























一時間ほどすると廊下から声が聞こえ視線を上げると同時に扉が開いた。






「あ!名無しさん来てたの?」






「五条さん、伊地知さんお疲れ様です。」






お疲れ様ですと律儀に返事を返す伊地知を遮り、なになにと言いながら五条が側に来て隣の席へドカッと座った。





「どうしたのそんなカッコで。」




「雨で服が濡れたのと、少し体を動かしたくて。」





そう端的に答えると五条は珍しそうにしながら人差し指で目隠しを片方ずらし名無しさんの姿を眺め口角を上げた。





「へぇ〜僕が相手してあげようか。」





「結構です。」





「相変わらず冷たいな〜。」





五条の存在を無視しながら文字を打ち込み始めると、伊地知が向かいの机に座ったので名無しさんは一旦手を止めて視線を上げた。





「出張の方は大丈夫でしたか?」





「はい、怪我も無く思っていたよりも早く片付きました。」





そう言って微笑むと、そうですかと口元を緩めて伊地知の頬が少し赤らんだ。









「…伊地知、後でマジビンタ!」





「えぇ!!」






五条は伊地知を指さしながら言うと、それに動揺したのかタブレットを落としあっと声を上げる。





不吉な音がして私はパソコン越しに覗き込むと幸いにも画面は割れていない様だった。





相変わらず五条さんは伊地知さんイジリが酷い。





はぁ〜と息を吐くと残り少なくなったコーヒーを飲んだ。















その後も五条さんは隣の席から動こうとはせずに、いつもと変わらない調子で伊地知さんと話をしていた。









この人は気まずさとか感じないのか?







チラリと横目で様子を伺うも、あんな台詞を言っておいて恥ずかしさとか申し訳なさとか微塵も感じてこない。








五条さんの体温も鼓動の早さも色気のある声も表情も、忘れたくても脳裏に焼き付いてしまっている。






ふとした時にそれが蘇ってきて悔しくも脈が異変を起こす。






逆に私が意識しすぎ?






熱で頭がどうにかなっていたのか。






いつもの如く人を揶揄って反応を楽しんでいただけなのか。






どちらにしても私には気分の良いものではなかった。







うだうだ考えているのが嫌になり、あれは熱のせいだと割り切り早く忘れてしまう事にした。























報告書を作り終えパソコンの電源を切ると鞄と殻になったコーヒーの容器を持ち立ち上がる。






「もう終わったの?」








五条の質問にはいとだけ答えて伊地知に挨拶をすると名無しさんは足早に部屋を出た。









今は忘れる為にも五条さんから離れたかった、切実に。






























渡り廊下の先にあるテニスコート程の広さの道場に入ると、鞄を放って仰向けに寝転がり雨の音を聞きながら天井の木組みをぼんやりと眺める。









なんでだろう。







こんな時、無性に七海さんの声を聞きたくなるのは。






電話を掛けてしまうのは簡単だけど、七海さんの事だから絶対に勘付かれてしまう。







会いたい。






声が聞きたい。







私はそんな衝動をグッと堪えて、不快な気持ちを消し去る為お気に入りの音楽を流しイヤホンを付けてトレーニングを始めた。



































































 * * *








五条さんとの約束の日を明日に控え、会議出席のため又もや高専へ来ていた。





今回の会議は一級以上の呪術師に召集がかかっていて、任務で来れない人を除き高専所属者はほぼ集合していた。





話の内容を聞く限り出席した価値を見出せなかったが、七海さんも同席していたので良しとする。







会議が終わってすぐに七海さんの元へ向かうと、彼も同じように私を探してくれていたようだった。





「お疲れ様です七海さん。」





「ななしさんもお疲れ様です。」





挨拶を交わすと、捌けて行く人の波に従ってどちらともなく外に向かって歩き出す。





「案外早く終わりましたね。」





「そうですね。特に興味がある話ではなかったので良かったです。」





前を向いたまま抑揚なくクールに話す七海を見上げて、つい先ほど自分も同じこと思っていたなと自然と頬が緩む。






やっぱり七海さんの隣は居心地が良い。









そんなことを考えていると後ろから、聞きたくなかった声が降ってきた。





「おつかれサマンサ!」





でた五条悟。





陽気に声をかけながら七海に乗り掛かる様に肩を組むと、名無しさんと七海の間へ邪魔をする様に割り込んできた。





その様子を眉を顰めて見上げているとサングラス越しに笑みを浮かべた五条と目が合う。






「ほんと、僕と七海とじゃ全然違うね。」






この間の距離感の話を踏まえて皮肉を言ってきたのがわかったので視線を逸らした。






「五条さんが会議に参加するなんて珍しい事もあるんですね。」






不穏な空気を悟ってか腕を引き剥がしながら七海はそう言うと、僕だってたまにはねと五条は口角を上げた。













「名無しさん。」





不意に五条が名前を呼ぶので視線を合わすと、私の肩に腕を乗せながら五条は顔を近づけ、含みを持たせる様な言い回しで確認してくる。








「覚えてるよね、明日。」










息がかかる程の距離に驚いた瞬間、ドクンと鼓動が高鳴った。







忘れかけていたのに。





いとも簡単に引きずり出された記憶。






「っ、覚えてます。」






早くなっていく脈に戸惑い、意識していることをこの男に勘付かれたくなくて咄嗟に顔を伏せた。







何故そんな聞き方をするのか。







どうして距離を詰めようとするのか。






どうして彼に私は反応してしまうのか。






この間から感じる違和感。







疑問だらけの思考に俯いたままでギュッと手に力を込めた。







「よろしい。」









そんな私を知ってか知らずか満足そうに声を上げると、不意に頭の上に大きくて温かい重みが乗ってポンポンと触れると離れていった。







「じゃあ、僕は授業があるから。」






そう言い手を上げて去っていく五条の背中を見送りながら、未だに落ち着かない鼓動を聞いていた。















「ななしさん。」





七海の声にハッと我に返り、出来るだけ落ち着いた声ではいと返事をする。






「少しいいですか。」






改まってどうしたのかと思いながらコクリと頷いて、歩を再開した七海の一歩後ろを着いていく。








庇の影になった建物沿いまで来ると七海は足を止めて振り返った。







「立ち入ったことを質問するので、答えたくなければそれで構いません。」







感情を読み取れない淡々とした口調でそう告げると、七海は一呼吸置いてゆっくりと質問を投げかけた。









「五条さんと何かありましたか?」







動揺している心を見透かされたような感覚に、どう答えるべきか焦燥感に苛まれる。









「…いえ、何も。」








結局そう答えることしかできず、私がどう返事をするのか分かっていたのだろう、特に表情を変える事無く再び七海は口を開いた。









「明日、とは?」







「それは…この間のお礼がしたいと食事に行くことになりまして。」







挙動不審になりながらも今度はちゃんと答えることができて内心ほっとする。







七海はそうですかとだけ答え、私を捉えていた眼鏡の奥の瞳が微かに逸らされた気がした。











私の様子を見て心配してくれているのだろうが、七海さんには五条さんを意識してしまっている事を知られたくなかった。






気持ちが表に出ない様に気をつけていたつもりだったが、そんなに分かりやすかったかなと反省する。






「五条さんの事ですから、貴方の心中を配慮せず無理強いしたのでしょう。」







「そんなところです。」






ズバリ言い当てられて苦笑するしかない。






その推測だけで七海の五条に対する認識が垣間見えた気がした。







「本当に、厄介な先輩を持ちましたね。」







そう吐き捨てる様に言うと、七海は地面に敷かれた砂利石を踏み音を立ててこちらに歩み寄る。







七海の雰囲気がいつもと少し違って見えて身体に変に力が入った。








「だから何だと思われるかもしれませんが」








木々の揺れる音を遠くに聞きながら、低く落ち着いた七海の声が耳に流れ込む。








「私はななしさんの事を大切に思っています、無理をしてでも守りたいと考える程にはです。……何かあれば頼ってください。」







そう言うと私の表情を伺ってから、話はそれだけですと再び砂利石を踏み鳴らし歩き出す。







私はゆっくり瞬きをすると、頭の中で反芻する七海の言葉で徐々に顔が熱くなるのを感じ、例えようのない嬉しさが込み上げた。





気付いた時には七海は数メートル先にいて、急いでその背中を追いかける。





隣に並び顔を覗き込みながら「ありがとうございます。」と緩みを抑えきれていない顔で微笑みかけた。





















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