「君の手をとるまで」

□20.月下で夕食の段
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-月下で夕食の段-



 文次郎に抱えられたななしは、こわれものを扱う様に丁重に医務室へと運ばれた。

途中、何度も大丈夫だと言ったのだが、念のための一点張りで折れてしまった。

潮江くんは意外と心配性だった。


「伊作、あとは任せる。」


 そう言って、ななしを床に下ろすや否や、文次郎は風の速さで医務室を去っていった。


「え?ちょっと文次郎!?」


 静かに閉まった障子を、伊作とななしは暫し眺めた。

そして、どちらからともなく目を合わせる。


「一体どうしたんですか?」


 伊作は文次郎の姫抱きに関しては触れず、心配そうに首を傾げた。


「それが……」


 先程起きた事を説明すると、伊作くんは「取りあえず腰を診ましょう。」と診察してくれた。

腫れてはいないようだったが、念のため打ち付けたところを氷嚢で冷やした。


「ななしさんお茶をどうぞ。」

「あ、ありがとう。」


 伊作くんが気を使ってお茶を用意してくれた。

温かいお茶が胃に染み渡り、気持ちを落ち着かせてくれる。

こうしてまったりのんびりとしているが、吉野先生たちにサボっていると思われいないだろうかと、少し心配になった。

いつまで冷やしていたらいいのだろうと、氷嚢の当てる位置を変えて、そろりと伊作くんの顔を窺う。

ななしの視線に気が付いたのか、伊作はクスッと笑った。

そして、まるで面白い事を思い出したかのように「文次郎が取り乱している姿、久しぶりに見ました。」と口角を上げた。


「取り乱してた?私にはすごく冷静に見えたけど……」


 落ちてきた直後は動揺を感じ取れたが、その後の対応は表情も態度も、いつもと変わらなかった気がした。


「心ここにあらず、という感じでしたよ。」


 そう言って微笑んだ伊作くんの表情には、友に向ける慈しみのようなものが滲んでいる気がした。

六年も一緒に生活していると、一縷の違和感も感じ取れてしまうのかもしれない。

伊作の観察力に関心しながら、ななしは籠の中に広がった包帯を拾い上げる伊作の指先を見ていた。

細いのに関節はしっかりとしていて、所々に治りかけの傷がある。

巻かれていく包帯が羨ましいと感じるほど、丁寧で優しい手付きだった。

ななしは無意識のうちに、その手に引き寄せられていた。


「えっななしさん!?」


 伊作は驚いてピクリと肩を上げる。

ななしは己の手の中に収めた、一回りも大きい手を見下ろし、握り込まれた指をゆっくりと開く。

包帯を握っていた掌には生々しい傷跡が残っていた。

崖から落ちた時の事を思い出し、鳩尾を押し込まれるような罪悪感が生まれ心が沈む。

治ってきてはいるが、それでも痛々しかった。

跡が残らなければ良いのだけれど。


「……ごめんね。」


 ななしの口から零れ出た謝罪の言葉に、伊作はゆっくりと肩を下ろした。


「ななしさん、顔を上げてください。」


 言われた通りに顔を上げると、伊作くんがにっこりと笑っていた。


「気にしないでください、もうこの通り大丈夫ですから。」


 伊作はななしの目の前で、ぐーぱーぐーぱー、と手を動かして見せた。


「傷も、もう少ししたら目立たなくなります。」


 微塵も責める事はなく、むしろ勲章であるかのように嬉しそうに。

優しく細められた目元が私をひどく安心させた。


「うん、ありがとう。」


 私は幸運で、本当に心根の優しい人たちの中で過ごせているのだなと、しみじみ思ってしまった。

それから四半刻ほど包帯巻きの作業を見学し、十分に患部を冷やすと、保健委員長の許しが出たので私は事務室へ戻った。

怒られる覚悟で帰ったのだが、全くその様なことは無く、逆に「大丈夫でしたか?」と心配されてしまった。

聞くところによると、吉野先生のところへ潮江くんが報告に来たそうだ。

忙しい時期だと言うのに要らぬ手間を掛けさせてしまった。

抜け目のない潮江くんの心配りに感謝だ。

 一日の業務が終わり、夕食はどうしようかと自室で寛いでいると、障子に写る人影が部屋の前で止まった。


「ななしさん。」


 この静かな落ち着いた声には聞き覚えがある。

扉の前にいるのが誰なのかすぐに分かり「はい。」と言って戸を開けた。

そこには予想通り、仙蔵くんが立っていた。

彼が部屋に来るのが珍しくて、つい目を見張る。


「遅くにすみません。」


 遅いと言ってもまだ宵の口だ。

私は首を横に振って「気にしないで、どうしたの?」と尋ねた。

ななしの寛いだ様子を見て、仙蔵は微かに眉を寄せると、神妙な面持ちになった。

何かとても重要な事なのかもと、私は身構える。


「もしかして、もう夕餉は済みましたか?」

「……夕餉?」


 想像の斜め上をいく質問にキョトンとしてしまった。


「そうです。」


 至極真面目に返事をされたので、私は呆けた顔を誤魔化し、一つ咳払いをした。


「今どうしようかと考えていたところだよ。」


 そう答えると、仙蔵くんの顔が見るからに明るくなった。


「実は……冷汁を作り過ぎてしまって、良ければ一緒にどうですか?」

「えっいいの?」


 願ってもない話だった。

小休憩のつもりで部屋に戻ってきたのだが、気付けば天井を見ていて、もう夕食を諦めようかと考えていたのだ。


「ぜひ、久方ぶりに文次郎と一緒に作ったんです。」

「潮江くんと一緒に?」

「はい。」


 仙蔵くんはこちらまで嬉しくなる様な笑顔を浮かべていた。


「ありがとう。お腹も空いていたし嬉しいよ。」


 誘ってもらえた事ももちろん嬉しいのだが、仙蔵くんと潮江くんの手料理を食べられる事が何より嬉しかった。

こんな機会は滅多にないだろう。


「では、行きましょう。」


 そう言って仙蔵くんに案内されたのは食堂では無く、前に一度だけ訪れたことのある六年生長屋だった。

潮江・立花と札の掛かった二人の部屋の前には、飯台となみなみ冷汁が入った鍋が用意されている。

この時間なので廊下には人気は無く、潮江くんの姿も見当たらない。


「文次郎は食堂に椀を取りに行っています。」

「え?あ、そうなんだ。」


 私の考えている事なんて仙蔵くんにはお見通しの様だ。


「それにしても……いっぱい作ったね〜」


 鍋の容量ギリギリに作られた冷汁を見て、三人で食べ切れるかなと考えてしまった。

胡瓜や大葉、茗荷、胡麻、他にも具がたっぷりと入っている。

とっても美味しそうだ。


「お魚とお豆腐も入ってる。」

「まぁ、ちょっと色々あってこの量になりました。」


 仙蔵は口元に手を当て苦笑いを溢す。


「色々?」


 その言葉に引っかかって思わず反復してしまった。

だが仙蔵くんは「色々です。」と笑って、答える気は無さそうだった。


「文次郎が戻るまで座って待ちましょう。」


 ななしは仙蔵に言われるまま廊下に腰を下ろした。


「ところで、あの時の怪我は大丈夫ですか?」


 あの時とは潮江くんが当たって転んだ時のことだろう。

その後、腰が痛むことも無かったので、大丈夫だと笑みを向けた。


「それなら良かったです。」


 安心したのか仙蔵くんの表情が緩む。

今日の夜空は雲が無く、月の明かりだけで十分に表情を窺える。

透き通るような白い肌に淡い月の光が当たって、彼の美しさがより際立っていた。

ずっと見ていたいと思ってしまった。

見惚れていたせいか仙蔵くんとばっちり視線が合ってしまい、僅かに心臓が跳ねる。

内心あたふたとしながら、何か話題をと思案していると、仙蔵くんが先に口を開いた。


「こうして見つめ合っていると、誰かに勘違いされてしまいそうですね。」


 どこか満足気な表情で笑った仙蔵くんは、月の光を纏う髪を肩から滑らせた。

十五とは思えないほど妖美な色気を感じ、思わず息を呑む。

そのままでいると空気に飲まれそうで、私は慌てて「ごめん、綺麗でつい見惚れちゃった。」と戯けて目を逸らした。

仙蔵くんもそういう冗談を言うのだなと、掌にじわりと汗が滲んだ。

昼間はあんなにも騒がしかったのに、今はシーンと静まり返っていて、まるでこの空間だけが切り取られたかの様に現実味が無い。

軒下に生える露草を、深緑の匂いを乗せた風が揺らしている。

いつもなら目に留まらない草むらに、私は視線を落としていた。


「私は……勘違いされても構わないですよ。」


 仙蔵くんの言葉にギュッと喉が締まった。

何も言えず、顔も見れず、ただ耳を仙蔵くんに傾ける。

無視している訳では無くて、身体が固まって動かないのだ。

どう反応するべきなのか。

脳だけがフル回転している。


「ななしさん。」


 仙蔵はななしの横顔をジッと見つめ、そして、頬に掛かる髪を指で掬って桃色に染まった耳にかけた。

私の肩は盛大に跳ね、みるみる体温が上昇した。


「少しは期待しても良さそうですね。」


 そう言ってクスリと笑ったので、私はゆっくりと顔を動かし仙蔵くんを見た。

優しく細まった瞳に数秒釘付けになった。


「そんなに無防備でいると唇を奪ってしまいますよ?」

「っ……」


 これは私でも冗談だとわかる、それくらいの言い方だった。

だが、とても心臓に悪い。


「仙蔵くん、あんまり揶揄わないで。」

「すみません。」


 先程とはガラリと空気が変わり、楽しそうに笑った仙蔵くんに「もう。」と言うと、私は密かに胸を撫で下ろした。


「文次郎が来たみたいです。」


 タイミング良く廊下に現れた潮江くんは、その手に椀を七つも持っていた。


「遅くなりました。」

「もっと遅くても良かったのだがな。」


 仙蔵くんがサラリとそんな事を言うので、私は「お椀もたくさんだね。」と焦りを隠すように潮江くんの手に視線を向けた。


「それが……」


 言いかけた潮江くんの声を遮るように別の声が重なる。


「二人でコソコソと楽しそうなことしていたので、混ぜてもらおうと思いまして。」

「僕もいます。」


 潮江くんの後ろから現れたのは、食満くんと伊作くんだった。


「久しいな私たち全員が揃うのは!」

「もそ。」


 急に背後からでかい声がしたので、危うく心臓が口から飛び出るところだった。


「七松くん、中在家くん。」


 七松くんは腕を頭の後ろで組むと、ニッと綺麗な白い歯を見せて笑った。


「たまたま全員の任務が無くて、更にたまたま文次郎と仙蔵が飯を作っていたので一緒に食べる事にしました。」


 中在家くんが代表して説明してくれてこの状況を納得した。


「そうだったんだ。」


 それならこの量にも合点がいく。


「文次郎がななしさんを押し倒してしまった事を気にして、これはそのお詫びのようです。」

「せ、仙蔵!」

「え?襲ったのか?」

「小平太は話がややこしくなるから喋るな!!」


 文次郎は顔を赤くし怒った。


「本当ななしさんに怪我が無くて良かったです。文次郎が"お姫様抱っこ"して連れてきた時はどうしたのかとヒヤヒヤしましたよ。」

「「え!文次郎がお姫様抱っこ!?」」


 伊作が揶揄うようにお姫様抱っこを強調して言うと、小平太と留三郎の声が見事に重なった。


「お前ら静かにしろ!!!」

「お前が静かにしろ!」


 仙蔵の一喝に、反論をグッと堪えた文次郎は口をモゴモゴと閉じた。

わちゃわちゃと目の前で繰り広げられる六年生の会話に、堪らず笑みが溢れる。

普段は先生に劣らぬほどしっかりとしていてピリッとしているのに、今は素に戻った感じの年相応の可愛らしさがあった。

彼らの過ごした六年間が、どれほどまでに深いのかを垣間見た気がした。


「さぁ、ななしさん食べましょう。」

「ありがとう。」


 仙蔵くんに冷汁を盛られたお椀を渡されて、お腹が鳴りそうになった。

皆んなに行き渡ったのを確認して「いただきます。」と、私は早速ひと口食べた。


「美味しい!」

「ふふ、ちなみにその豆腐は兵助の手作りですよ。」

「うそ!?」


 豆腐を手作り??


「食堂で鉢合って協力したいと渡されたんです。」

「すごいな久々知くん。」


 そんな会話をしながら、私は六年生と共に夕食を堪能した。

急に潮江くんと食満くんの戦いが始まったり、伊作くんのお椀に虫が入る不運が発動したり、色々と忘れられない夜になった。

彼らを照らす煌々と輝く月は、それはそれは綺麗な月だった。








2022.11.13
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