「君の手をとるまで」
□22.心の拠り所の段
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-心の拠り所の段-
日が沈み暗くなってきた頃、約束通り土井先生が部屋へ迎えに来てくれた。
「空いていればいいのですが。」
この時間帯は生徒たちも調理場を利用する。
なので当然、混み合っていることもあるのだ。
ななしは「そうですね。」と相槌を打ちながら、半助に付いて食堂へと向かった。
今日の夜空は一面に雲が掛かっていて暗い。
忍者からすれば、活動のしやすい最適環境なのかもしれない。
だが私からすれば、リアルお化け屋敷だ。
この学園を第二の家だと思い生活している生徒たちには申し訳ないが、夜は本当に雰囲気があって怖い。
霊感なんてものはこれっぽっちも無いのだが、夜になった途端、首筋を冷たい手で撫でられているかのような居心地の悪さと、恐怖を感じるのだ。
おそらく、前世で刷り込まれた先入観のせいだろう。
木製の床が軋み、暗闇で先の見えない廊下の奥から生ぬるい風が吹きつける。
半助の持つ灯明の火が細く揺れ、二つの影が大きく波打った。
ななしは転ばぬよう足元に注意しながら、さり気無く、半助との距離を縮める。
半助はチラリと視線だけを動かすと、肩越しに見下ろして口を開いた。
「昼に白飯を取っておいたので、山菜を入れて雑炊にでもしようかと思っているんですが、どうですか?」
「それは美味しそうですね!身体が温まりそうです。」
ななしが雑炊に思いを馳せて頬を緩めると、半助も嬉々と笑顔を浮かべた。
「怪我の具合はどうですか?」
「お陰様で、無理に動かさなければ痛むこともありません。」
「それは良かった。」
ふと隣を見上げると、土井先生の朗らかに笑った横顔がよく見えて、すぐ触れられる位置に腕があることに気が付いた。
歩調が緩まっているのは、気のせいではないだろう。
それとない気遣いに、大きく心臓が鳴って、頭がジーンと痺れる。
虫も鳴いていないこの静かな夜に、私の鼓動が響いていないか心配になった。
* * *
食堂に着くと、心配していた混雑のこの字も無く、ガランとしていた。
「誰も居ませんね。」
ななしが言うと、調理台の隅に灯明を置いた半助は「今のうちにぱぱっと作ってしまいましょう。」と、袖を捲り上げた。
ななしも後を追う様に袖を捲くる。
右の袖は上手くいったが、左の袖は手が思う様に動かせず上手くいかない。
苦戦していると、土井先生が側に来て「ほら、無理して動かさないの。」と手際よく巻いてくれた。
すぐ気がつくところや、面倒見の良さは、日頃子どもたちを相手にしているからだろう。
鍛えられた逞しい腕と、頼りのない細い腕が並ぶ。
この状況が無性に恥ずかしくなって、「これでよし!」と発した土井先生の顔を、見上げることができなかった。
「あ、ありがとうございます。」
「どういたしまして。ではとりあえず、火と水を準備しましょうか。」
「はい。」
土井先生の的確な指示で、片手しか使えない私でも、何とかお手伝いする事ができた。
出来上がるまで待っていてくれと言う方が、遥かに簡単だっただろう。
私が気にする性格だと分かって、土井先生はそうしなかったのだ。
この優しさの塊である土井先生が、未だ独身なのが不思議でならない。
食堂の端の席で向かい合って座り、湯気の昇る雑炊を眺める。
あっという間に完成した山菜入りの雑炊は、とても美味しそうだった。
「食べましょうか。」
半助は匙を片手に微笑んだ。
「はい、いただきます!」
ななしも不慣れながら匙を持つ。
箸と違って、これなら利き手じゃなくても何とかなりそうだ。
慎重に掬って口へ入れる。
程よい塩味と、米の優しい甘み、山菜の香りが心地よくて、ホッとする味だった。
「美味しいです!」
ななしの表情を確認し、半助は満足気に目を細めると、匙の上に乗ったままになっていた雑炊を食べ始めた。
普段は生徒たちで賑わい騒がしいくらいの食堂が、今は互いの息遣いがわかるほど静まり返っている。
ふぅふぅと雑炊を冷ますだけで少し緊張した。
「そう言えば先日、六年生と一緒に夕飯を食べていましたよね?」
「え?」
突然の切り込みに、まさか見られていたとは思わず顔が強張った。
「見回りをしていて偶然見かけたんです。」
何も焦る必要はないのに、胸が早鐘を打った。
「あの時は、夕飯を作り過ぎたからと誘ってもらって。土井先生が見ていたなんて全然気が付かなかったです。」
笑ってはみたが、いつから見ていたのだろうか……
仙蔵くんと二人きりのところを目撃されていたらと思うと、内心気が気ではない。
「遠目に見かけただけなので声は掛けなかったんです。楽しそうで、つい羨ましくなってしまって……お昼はともかく、夜は一人で食べる事が多いですからね。」
「六年生たちも言っていました。偶然タイミングが合ったって。」
「学年が上がると、時間が合わなくなりますから。どうも珍しい光景だったので気に留まってしまって。」
「そうだったんですね。」
心配していたが土井先生の表情はいつもと変わらなかった。
大丈夫そうだなと気が緩んだところで、不意に爆弾が投下される。
「名無しさんは仙蔵と仲が良いんですね。」
ドキッとして、落ち着き始めた脈が又もや速まった。
単純に、仙蔵くんに夕食を誘われたから仲が良いと思われたのだろう。
ごく自然な会話の流れだ。
私は当たり障りのない肯定を浮かべて口を開きかけ、そして、ふっとあることが気になった。
私、さっき、仙蔵くんに誘われたと言ったかな?
数秒前の事なのに、言ったような、言ってないような……定かでない。
やはり見られていたのだろうか。
もしかすると、会話を聞かれていたのかもしれない。
聞かれていたからと言って、別に気にする事でもないのだが。
ななしは不思議そうに首を傾げる半助を見つめた。
何故だろう。
土井先生に、仙蔵くんと仲が良いと思われることが、無性に嫌だった。
「名無しさん?」
急にだんまりを決め込むななしに、半助は戸惑いの表情を浮かべた。
ななしはへの字に曲げていた口を開くと、聞かれてもいないのに、まるで言い訳をする様に、どうして仙蔵に夕食を誘われたのか、そして、それまでの経緯までを洗いざらい話した。
焦っている様にも感じるななしの態度に、半助は驚き目を見開いた。
全てを話し切ったななしは「そうだったんですね。」と言った半助の言葉を聞いて固まる。
仙蔵くんとの仲を頑なに否定したみたいになってしまったのではないか?
ここまで必死に否定しなくても良かったのではと。
ななしは気まずくなって「皆んな優しいから気遣ってくれてるんです。」と、とって付けた様に呟いて目を泳がせた。
半助はななしの態度に何を思ったのか、寸秒表情を暗くし、すぐに持ち直した。
「もちろん学園の仲間として大切に思っていると思います。ただ、彼らも年頃ですから……優しくて、頑張り屋さんで、可愛い名無しさんが気になっているんじゃないですか?」
「……え?」
土井先生の意外な言葉に、私は軽い衝撃を受けてポカンとしてしまった。
「まだまだ頼りない所もありますが、誠実で思いやりがあって……良い奴らですよ。」
半助は肩を竦めて笑った。
頭の中にモヤモヤが渦巻いていて、なかなか理解が追いつかない。
「教師の立場なので言い難いですが、もしも名無しさんの心の拠り所ができるなら、私は嬉しいです。」
土井先生の優しい笑顔。
いつもなら嬉しくて心がポカポカするのに、今は見るのがツラくて苦しかった。
勝手に、突き放されたような……そんな気持ちになった。
ななしはギュッと胸元を押さえる。
真っ赤に焼けた針を胸に刺し込まれたような、目の奥が熱くなるような痛みだった。
どうして痛いのだろう。
土井先生はとても優しい言葉をくれたのに。
ななしの今にも泣きそうな顔を見て、半助は慌てて椅子から立ち上がった。
「すみません変な事を言って……」
半助はアワアワと手を宙に彷徨わせ、顔に焦りを浮かべる。
「あ、いえ、大丈夫です!」
到底、大丈夫では無さそうなななしの表情に、半助は眉間に深く後悔を滲ませた。
「軽率な発言でした……私、名無しさんを傷つけてしまったのではないですか?」
「土井先生は悪くないです!その、私が勝手に、何故か悲しくて……」
半助は黙り込み、ななしの言った"悲しい"の意味を推し量ろうとしていた。
私は今の気持ちを伝える上手い言葉が見つからなくて「えっと〜」とか「その〜」とか、間繋ぎの言葉を溢した。
「私の事を思って言ってくれてるんだって、嬉しかったです、嬉しかったんですけど…… 」
彼の口からは聞きたくない言葉だったなと。
ななしは苦笑いを浮かべる。
「心の拠り所は土井先生がいいなって……」
話している途中でハッとした。
私は何を言っているのか。
半助は開いた口をそのままに、僅かに目を見張った。
「すみません! よく分からないことを。本当に気にしないでください!」
ななしは椀の淵で額を打ちそうになりながら俯いた。
時を止めた様な沈黙が続き、こちらへ向けられた視線にジリジリと肌を焼かれている気分だった。
半助は力なく腰を下ろすと、右手で顔を覆い「……すみません。」と狼狽の混じった小さな声を発した。
そろりと窺う様に顔を上げたななしは、ハッと息を飲んだ。
手で隠されてはいるものの、半助の顔は暗くても分かるくらいに紅く染まっていた。
それを見て伝染したのか、ななしの顔も耳まで熱く上気する。
今更だが、自分が言った言葉を思い返し、両手で顔を覆った。
なんてことを言ってしまったんだ。
これではまるで、私が土井先生の事を……
ドキドキと鼓動が煩い。
決して間違った事は言っていないのだが、誤解を生んだことには変わりない。
ななしは羞恥心と戦いながら手を握り込んだ。
「あの、私、変な事を……今の会話は忘れてください。」
本当に居た堪れない。
できる事ならば、今直ぐこの場から逃げ出したかった。
だが、目の前には艶めく白米が残っているし、椀を持って逃げる勇気はなかった。
為す術なく、力の入った唇がふにゃりと曲がる。
「忘れられないです……」
向かいから聞こえた声は、普段よりも低く耳に届いた。
呼吸を忘れて顔を上げると、熱を持ったままの顔で土井先生がこちらを見つめていた。
その黒い瞳に、小さく燃える灯明の明かりを映して。
身体が脈打ち、全神経が研ぎ澄まされていく気がした。
「……忘れたくない。」
土井先生は懇願するかの様に呟いた。
二人の間にむず痒い空気が漂う。
沈黙がしばらく続き、気付けば、お互い反省するかの様に机の木目に視線を落としていた。
ソワソワと落ち着かない、甘酸っぱい恥ずかしさが充満している。
「えっと……とりあえず、冷めてしまう前に食べましょうか。」
土井先生は場の空気を変えようと、さっきまでの声とは対照的に明るく言った。
「そ、そうですね!」
私も同じ思いで、出来るだけ明るい声で応えた。
震えそうになる手を動かし、匙を口に運んだ。
せっかく美味しかった雑炊の味も分からなくなっていた。
2023.01.18