「君の手をとるまで」
□14.そして、の段
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-そして、の段-
雑音の中に私はいた。
四方に人の気配を感じる。
遠くで聞こえる電車の接近放送。
あぁ、ここは駅だ。
そうと分かると、我先にと動く人間が鬱陶しかった。
私はホームへ向かうために階段を降りていた。
そして、背に何かぶつかり身体が傾く。
踏み留まることのできなかった足が宙に浮いた。
落ちたのだ。
かなり高い位置から落ちた。
他にも巻き込まれた人がいるかもしれない。
転がり落ちている間、悠長にもそんな事を考えていた。
「…………さ……」
ゆらゆらと意識が浮上していく。
朝、夢から目覚める時と同じ感覚だ。
縫われた様に重い瞼を上げるとぼんやり景色が霞んでいた。
暗くて良く見えない。
「…………ななしさん!」
声が聞こえる。
「ななしさん!しっかりして!」
呼んでる。
誰が?
私はハッとして大きく息を吸い込んだ。
「ッ…ゴホッゴホッ……!」
「ななしさん!」
勢い良く上体を起こすと咳込んで、詰まった水が吐き出た。
酸素を吸い込む度にゼーゼーと胸が音を立てる。
苦しい。
水分を吸収した衣が重い。
ズキズキと脈打ち痛む頭も鉛の様だった。
「…………いさく、くん?」
意識がしっかりとしてきて、視界には伊作くんの姿が映った。
「良かった、ななしさん。」
まつ毛から滴ったものは水なのか、はたまた涙なのか、伊作くんは濡れた頬をそのままに、私の体を強く抱き締めた。
「良かった……」
耳元で聞こえる伊作くんの声に、胸が張り裂けそうになった。
無事を安堵する場面だろうが、私の目からは堰を切った様に悲しみの涙が溢れ出た。
思い出してしまったのだ。
どう足掻いても変える事の出来ない事実を。
「……死んだんだ。」
震える唇から漏れ出た声は蚊の鳴く様な、か細いものだった。
伊作くんは「え?」と体を離す。
「私は、死んだ……」
落ちた事で思い出してしまったのだ。
ずっとずっと帰りたいと願っていた、その世界の最後の瞬間を。
喉と目の奥がジーンと熱くなって、次から次へと涙が湧き出る。
悲しくてどうしようもなくて、"死んだ"と言う事実を受け入れたくなかった。
ボロボロと泣き崩れるななしに、様子がおかしいと伊作は戸惑った。
「ななしさん?」
「う、うぅっ……あぁぁぁん!」
みっともなく、私は声を出してわんわん泣いた。
もう、家族にも友達にも会えないのだ。
いくら望んでも、あの場所へ帰る事はできない。
ななしの悲痛な慟哭は渓谷に良く響いた。
「ななしさん!」
伊作はななしの両肩を掴み、何度も名前を呼んで揺らした。
「しっかりしてななしさん!」
伊作の懸命な呼びかけに、ななしは目にいっぱいの涙を溜めて、嗚咽を漏らした。
「生きてるよ!僕たちは生きてる!!」
言い聞かせる様に、伊作はしっかりとななしの目を捉えて言った。
真っ直ぐ自分へと向けられた伊作の力強い瞳が月明りで照らされた。
私は涙も瞬きも呼吸も忘れて、静かに伊作くんを見た。
濁流の様に押し寄せた感情。
胸が痛むほどの受け止めきれない悲しみが、ゆっくりと静まっていく。
………そうだ。
私は今、この世界で生きている。
伊作くんが助けてくれたんだ。
「……っ、うぅ。」
止まっていた涙が再び流れ出した。
私は伊作くんに抱きついて、肩口に顔を埋めた。
微かに感じる伊作くんの体温。
胸の中心で動いている心臓。
生を感じた。
たちまち肩の力が抜けていく。
元の世界の私は死んでしまったかもしれない。
けど、今ここに存在する私は生きている。
生きているのだ。
「ありがとう伊作くん……ありがと。」
髪も服もびしょびしょだったが、気にならないくらい涙で顔が濡れていた。
伊作くんがうんうんと頷きながら背を撫でてくれている。
優しい手に、私の心は徐々に落ち着いた。
かなり前から、そうではないかと……薄っすらとだが予感はしていたのだ。
容姿が変わっていたし、元々この世界に"名無しななし"が存在していたから。
でも、認めたくなかった。
認めてしまったら、帰れないと言う現実を受け入れなければいけなかったから。
だがもう認めるしかない。
ななしは冷え切って硬直した手で、寄りすがる様に伊作の服を握り締めた。
震えるななしの身体を伊作は優しく包み込み、嗚咽が止まるまで静かに待った。
* * *
「落ち着きましたか?」
随分と長い間そうしていたが、伊作くんの声に唐突に我に返った。
「あっ!!ご、ごめん!私、つい、勢いで、その……」
即座にぴったりとくっついていた身体を離した。
自分でも可笑しく思える程に動揺している。
私は勢いでとんでもない事を……
オロオロと無駄に手を動かしていると、伊作くんが「っぷ、あはは。」と堪え切れずといった感じに笑った。
そして、柔らかな月の光で照らされた伊作くんの瞳から、一筋の雫が落ちる。
頬を濡らすそれが、今度は涙だとはっきり見て取れた。
「…………本当に良かった。」
先程の笑いは安堵からくるものだったのだろう。
釣られたように私の頬も緩み涙が零れた。
「伊作くん、助けてくれてありがとう。」
伊作くんは笑顔で返してくれた。
やっと平常心を取り戻し、回りを見渡すと、川縁の大きな岩の上だった。
「かなり流されてしまったみたいです。とりあえず上に登りましょう。」
そう言い、差し出した手を伊作くんは直ぐに引っ込めた。
見えてしまった。
「伊作くん……」
私が眉を寄せたのを見て、伊作くんは渋々といった感じで手を前に出した。
手の平の皮膚が剥けて血だらけだった。
直視するのも憚られるような酷い状態だ。
落ちた時の衝撃を和らげるために縄を掴んでいたのだろう。
二人分の体重を支えたのだからこうなるのも当然だ。
こんな怪我をしてまで私を助けてくれたのだ。
そう思うと胸がギュッと苦しくなった。
「ごめんね、痛かったでしょ。」
言いながらまた目の奥が熱くなる。
泣いてばかりではいけないと寸前で堪えた。
「これくらいは慣れてます。」
伊作くんはそう言って微笑んだ。
私は唇を噛むと、伊作くんの手を両手で掬い上げた。
「……できるだけの手当てしよう。」
ななしの真剣な瞳に、伊作は一瞬の間を置き、どこか気恥ずかしそうに頷いた。
踏み外さないよう川へ近づき傷口を洗うと、固く絞った手拭いを裂いて手の平に巻いた。
私が巻いたものだから不格好だったが「ありがとうございます。」と嬉しそうに感謝された。
何とか協力して斜面を登り谷から上がると、風を凌げそうな岩場に腰をおろした。
「今山の中を歩くのは危険なので、ここで夜が明けるのを待ちましょう。」
私は「そうだね。」と返事をして膝を抱え小さくなった。
始めは狼や熊が出たらどうしようと考えていたが、それよりも今は寒さをどうにかしなければとそれしか頭になかった。
凍える程と言う事ではなかったが、肌に張り付く湿った服が確実に体温を奪っていた。
きっと伊作くんも寒さを感じているだろう。
身体が冷えていると感じた頃から何となく沈黙が続いている。
何故かお互い寒いねとは言い出せず。
この肩が触れそうで触れない距離に緊張して、妙に息が詰まった。
ホーホーとフクロウが二つ鳴いた後、伊作くんが口を開いた。
「寒くないですか?」
私は久しぶりに横に座っている伊作くんを見上げた。
「…………寒い。」
私の言葉を聞いて伊作くんが微かに瞳を揺らしたのが分かった。
目の前の少年は十五歳だ。
さすがに素肌で温め合うなんて言い出せないだろう。
そこまではしないにしても、身体を寄せ合えば今よりは温かくなるはず。
私は緊張しながら投げかけてみる。
「……くっついてもいいかな?」
伊作くんは少し口を開いたまま固まってしまった。
先程は無意識に抱き合っていたが、改まってと言うのは私たちにはハードルが高かったのかもしれない。
「ごめん、嫌なら大丈夫だから!」
伊作くんは頬を赤く染め否定する様にフルフル首を横に振った。
そして私の表情を窺いながらおそるおそる両手を広げる。
「ななしさんさえ良ければ……」
腕の中においでという事だろう。
自分で言い出しておきながら、面白いほどに顔が熱くなった。
きっと熟した林檎の様に赤面しているに違いない。
羞恥を堪えて私は伊作くんの懐に飛び込んだ。
向かい合うのは心臓が持たないと判断し背を向ける。
足を折り極力縮こまると、伊作くんの足の間にピッタリ収まった。
伊作くんは一瞬躊躇してから私の身体に腕を回した。
後ろから抱きしめられた状態だ。
少しでも温まればと、私も伊作くんの腕をぎゅっと抱えた。
再び沈黙が訪れる。
ひどく静かで二人の呼吸音だけが鼓膜に響いた。
しばらくすると、徐々にだが緊張から解放され、思考が回り始める。
なにこれ……
めちゃくちゃ温かい。
お互いの体温が上昇しているからかもしれないが、体が温まりポカポカと心地良かった。
「伊作くんあったかいね。」
「ななしさんも温かいよ。」
ふふっと笑い合うと気まずさが幾分か和らいだ気がした。
夜明けまではあとどれくらいだろうか。
乱太郎くんは無事だろうか。
そんな事を思いながら目を閉じた。
すると、瞼の裏に家族や友達の顔が浮かぶ。
あぁ……今は思い出したくないのに。
次々と思い出が浮かんでくる。
家族で初めて海に行った日の事。
誕生日に欲しかったおもちゃをプレゼントしてもらった事。
就職して一人暮らしを始めた事。
友達と旅行に行った事。
何気ない会話がポツリポツリと甦ってくる。
まだまだ現実を受け止め切れていない。
気持ちを切り替えるには時間がかかりそうだと、知らず知らずのうちに流れ出た涙にそう思った。
顔は見えていないが、伊作くんは気付いてるだろう。
それでも何も言わずに、ただ側に寄り添ってくれている。
十五歳とは思えない程に人の気持ちに聡い。
優しいな……本当に優しい。
私は腕を抱えた手にギュッと力を籠め、ゆっくりと顔を埋めた。
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