「君の手をとるまで」

□12.苦労人の段
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-苦労人の段-



 紙を捲くる音。

筆を走らせる音。

集中の二文字を凝縮したような空気の中、耳に届くのはその微かな音だけだ。

閉め切られた事務室で黒頭巾が三つ並んで机に齧り付いている。

吉野先生、事務のおばちゃん、そして私だ。

今日中に配布予定だった書類が、通称へっぽこ事務員により再生不可になり、大急ぎで一から作り直しをしている。

筆に不慣れである私も、居ないよりはまっしだとお手伝いしていた。

この殺伐とした空気を作り出した張本人は、吉野先生の命で落とし紙の補充へ出ている。

事態を悪化させぬようにと、吉野先生はそう判断したのだろう。

私は書き損じのない様に慎重に写し作業を進めた。

何とも言えない緊張感が続き、胸の下辺りにチクリと痛みが走った。


「っ……」


 漏れそうになった声を押し殺して、私は密かに眉を寄せた。


「……終わりました。」


 吉野先生のその言葉で重苦しい空気から一気に解放される。


「なんとか間に合いましたね。」


 疲れ切った吉野先生と事務のおばちゃんの顔を見て私は苦笑いを浮かべた。

各々首やら腕やらを回し、凝り固まった筋肉をほぐす。


「お昼の休憩時間を過ぎてしまいましたね。この書類は私が配布してくるので、お二人は休憩してきてください。」


 吉野先生は付足す様に「私と小松田君は後から休みます。」と言った。

そう言う事ならと、申し訳なく思いながらも私たちは休憩を取る事にした。

事務のおばちゃんはお弁当を持参しているとの事で校庭へ、私はランチが残っているのか不安になりながら食堂へ向かう。

もう午後の授業が始まっているのか、誰ともすれ違うことなく教員長屋を出た。

食堂前に着くと見知った黒い忍び装束を見つけ、私は駆け寄り背に声を掛けた。


「土井先生!」

「名無しさん。」


 半助は一瞬目を見開いて「随分と遅い昼食ですね。」と言った。


「ちょっと色々ありまして……」


 ななしの表情から何か悟ったのか半助はぎこちなく微笑む。


「土井先生も今からお昼ですか?」

「はい。補習の準備をしていたらこんな時間になっていました。」


 あははと乾いた笑いが何とも気の毒に思えた。

流れで一緒に昼食を取ることになり食堂へ入ると、おばちゃんが「あら。」と眉を下げた。

嫌な予感がした。


「ごめんなさいね、今日のランチ売り切れちゃったの。」


 ななしと半助は顔を見合わせ、しょんぼりと項垂れた。


「おにぎりとお漬物、それとお味噌汁くらいなら用意できるけど……」


 食堂のおばちゃんは落ち込んだななしたちを見て透かさず代替案をあげてくれた。

おばちゃんの作るおにぎりは特別美味しい。

凹んでいた気持ちが一気に払拭された。


「「お願いします!」」


弾んだ声が重なり私は隣を見上げる。

土井先生の顔が嬉々として綻んでいた。

"きっと私も同じ顔をしている"

そう、私たちは同じことを思っただろう。

何だかそれが無性に気恥ずかしくて、私たちは誤魔化す様に笑い合った。

 おばちゃんの特製おにぎりを受け取り席に座ると、私は手を合わせていただきますをした。

お味噌の良い香りがする。

堪らず箸を手に取りお椀を持ち上げた。

次の瞬間、鳩尾にチクリと針を刺したような痛みが走った。


「っ……」


 不自然に固まったななしを見て、半助もお椀に口を付ける寸前で動きを止めた。


「どうかしましたか?」


ななしはその問いに苦笑いを浮かべた。


「最近鳩尾辺りがズキズキ痛むんです。」

「え!?それ胃痛じゃないですか?」


 半助は驚いて目を丸くする。


「胃痛……」


 確かにここは胃の位置かもしれない。

私はそう思って痛んだ場所をさすった。


「私も良く痛むんです。」


 半助は決まりが悪そうに言った。

私の頭には個性豊かな一年は組の子どもたちが思い浮かんだ。

胃も痛くなるだろうと苦労を察し、愛想笑いしてしまった。


「ストレスが溜まっているのかもしれませんよ?」


 そう言われて、最近は悩み事が多くて夜も上手く寝付けない日が続いているなと思い返す。

仕事の事ではなくて、私自身の事だ。


「そう、かもしれません。」

「医務室に行けば薬を貰えますよ。あまり無理はしないでくださいね。」


 心配そうに眉を下げる半助に「ありがとうございます、相談に行ってみます。」とななしは笑顔でお礼を伝えた。

土井先生はとても優しい性格をしている。

でもその分、きっと心配事が多いのだろう。

困っている人を放って置けない、他より苦労をするタイプの人間ではないかと、この短期間で感じていた。

優しすぎるのも短所になり得るのだなと、私は向かいで幸せそうに味噌汁を啜る土井先生を見つめた。


「……っ、どうしました?」


 ななしの視線に気づき、半助は肩を微かに揺らすとあたふたと目を泳がせた。

土井先生にしては珍しく挙動不審な反応だった。


「あ……すみません、見過ぎでしたね。」


 恥ずかしくなって私は照れ隠しに笑った。


「もし私にお手伝いできることがあれば、いつでも言ってください。」


 ななしの言葉に半助は面食らった様にパチリと大きく瞬きをした。


「土井先生の力になりたいんです。」


 純粋に心からそう思った。

出会って日が浅いにもかかわらず、絶えず私の事を気に掛けてくれて、幾度も救ってくれた。

感謝してもし尽くせないくらいだ。

始めこそ驚きを見せていた半助だったが、「ふふっ」と声を漏らし優しく微笑んだ。


「それは私の台詞ですよ。……ありがとうございます名無しさん。」


 ほんのりと頬を染めた土井先生に、私の胸が大きく跳ねた。

優しい眼差しが私の体温を上昇させる。

ほわほわした感覚は食事が終わるまで続いた。

食堂のおばちゃんが買い物に出たので、二人で洗い物をしてから食堂を出た。

土井先生と別れ、私は先ほど教えてもらった薬を貰おうと、早速医務室へ向かうことにした。











 * * *



 医務室は新野先生が不在のようで、伊作くんが一人薬草の手入れをしていた。


「ななしさん!」


 伊作は作業の手を止めななしの側に歩み寄った。


「どうしました?」


 不安そうに言う伊作に、ななしは少しでも安心してもらおうと笑顔を向けた。


「大した事じゃないんだけど、最近胃が痛むの……だから、お薬を貰えないかなと思って。」


 そう伝えると伊作は微かに眉を上げた。


「わかりました。念のため、一度診察してもいいですか?」

「はい、お願いします。」


 私の返事を聞いて伊作くんは畳の上に横になるよう指示した。


「今日は新野先生が出張なので、僕ですみません。」


 そう言って伊作くんが申し訳なさそうな顔をするので、私は手を横に振った。


「そんな!私は伊作くんに診てもらえて嬉しいよ。」


 なんだか変態みたいな発言だったかなと、後からじわじわと恥ずかしくなった。

伊作は照れた様に「ありがとうございます。」と笑い、ななしの身体の横で中腰になった。


「少し触ります、力を抜いてくださいね。」


 伊作はななしの手首に触れると、真剣な表情で脈を測り始めた。


「お腹を下したり吐き気の症状はありますか?」

「今のことろは無いです。」

「食堂以外で食事をしましたか?」

「いいえ。」

「服の上からお腹を触ってもいいですか?」

「はい。」


 淡々と質問をして、伊作はななしの腹部を指の腹で触れた。

少しずつ場所を変えて圧を掛ける。

本当にお医者様みたい。

ちょっと恥ずかしいな……

そんな事を思いながら、ななしは伊作の真剣な顔を下から眺めていた。


「ここは痛みますか?」

「いいえ。」

「じゃあここ」

「っ……」


 ななしの顔が歪んだのを見て伊作は手を離した。


「もう起き上がって大丈夫ですよ。」


 ななしは畳に手を付いてゆっくりと上半身を起こした。


「ななしさんの言った通り胃の炎症だと思います。薬を用意しますね。」


 伊作は笑顔を見せてから背を向けると、薬棚を開き、包みを手にして元の場所へ戻ってきた。


「これを食後に一日三回飲んでください。」


 六角形に折られた包みを三つ手渡された。


「胃薬はもうこれだけしか無くて……」


 伊作は困った様に眉を下げ、後ろ頭に手を当てた。


「放課後に乱太郎と薬草を摘みに行くので、胃薬になる薬草が手に入れば、追加分をお渡ししますね。」


 この時代の薬は高価なものだ。

もらうだけと言うのは気が引けた。


「伊作くん。」

「はい?」

「もしお邪魔でなければ、私もお手伝いさせてもらえないかな?薬草摘みに。」


 そう伝えると伊作くんの瞳が宝石の様にパーッと輝いた。


「お邪魔なんてとんでもない!とっても助かります!」


 伊作くんは「三人ならたくさん持って帰られます!」とにっこり微笑んだ。

喜ぶ伊作くんを眺めながら、私は「そうだね。」と頬を緩めた。

その日の放課後、私と伊作くんと乱太郎くんは薬草摘みのため裏山へ向かった。










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