「君の手をとるまで」

□07.弱った心の段
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-弱った心の段-



 ななしは入門票の紙を束ねると端に二つ穴を開け紐で結んで冊子にしていた。

月に一度こうして整理するのだそうだ。

小松田さんは学園長のお遣いで外出していて、今、事務室には私一人。

他にする事もないので壁に背を預けてダラリと脱力した。

格子窓から入る穏やかな風と小鳥の囀りが心地良い。

目に映る景色、音、匂い。

随分と馴染んでしまった。

もうこの世界に来て一ヶ月弱になるのか……

ななしは机の上に置かれた入門票の挟まれていないバインダーを見る。

やっぱり可笑しいんだよな。

以前から違和感は感じていたのだ。

この世界は本当に室町時代なのだろうか。

チラホラと現代的なところがあって、チョークとか黒板とか……言い出したらキリがない。

ただ単にタイムスリップしたとかではないんだろうなと思っている。

そもそも私の容姿自体変わっているのだからどうしようもないのだけれど。

パラレルワールドとか?

言ってみたがよく知らないし。

元の世界に帰る手がかりは今のところ皆無だ。

雪山にいた経緯も思い出せない。

進展が無さ過ぎてさすがに気が滅入ってしまう。

 ななしは盛大に溜息を吐いた。

だからといっては何だが、今日はしようと決めていた事があった。

以前きり丸くんが学園内に図書室があると教えてくれたので、そこで調べてみようと思っている。

ななしは根が生えそうになっていた腰を上げると図書室へ向かった。

 引戸を静かに開けると中には誰もいなかった。

図書委員の子もいない。

借りる訳じゃないからいいかとななしは棚に並べられた本や巻物を物色した。

文字が楷書体で書かれたものしか読めないので、もし関係のある本があっても読めないかもしれないが……何もしないよりはまっしだ。

想像以上の本の量と、題名から内容が分からないものは一々中を開いて確認しなければいけなくて苦戦する。

今日全てを確認する事は難しいだろう。

 数時間書物を漁っていたが疲れてプツリと集中が切れた。

もちろんこれといった収穫も無く落胆する。

ななしは本棚の前でしゃがみ込んだ。

書物の古びた墨の匂いが嫌に鼻についた。

今まで気丈に振る舞ってきたが不安で不安で仕方がないのだ。

ここはどこなのか。

私は誰なのか。

どうしてここに来た記憶がないのか。

何故それを思い出せないのか。

認めたくなくて一意に向き合わないようにしていた。

もし……もし、一生このまま、元の世界に帰れなかったら?

胸に熱いものが詰まる感覚がして、口元にギュッと力を入れた。

こんな事になるなら、もっと実家に帰っていれば良かった。

家族に会って、友達にも会って、感謝の言葉を伝えて。

もっと笑って、もっと楽しんで……

大切なものは無くしてから気付くというけれど、本当にそうだ。

独りがこんなにもツライなんて。

会いたい。

 じわじわと溢れ出る涙をななしは手の甲で拭う。

何度も何度も。

込み上げるものは止まることはなくて、諦めて膝に顔を埋めた。

この世界が嫌な訳ではない。

むしろみんな優しくて温かくて大好きだ。

けど……

もう会えないのかな。

 後悔しても遅いのに、今更ああしていれば良かったとか、こうしていれば良かったとか考えて。


「私ってバカだ……」


 直後、部屋の奥でカタッと物音がしてはっと顔を上げた。

今まで誰も居なかったはずの場所に、土井先生が立っている。

そして、ななしの濡れた頬を見て気まずそうにすみませんと言った。

私は立ち上がってはみたものの動揺して固まってしまった。

なぜ泣いているのか、この状況を説明しなければいけないのではと。

上手く切り抜ける方法を考えるが頭が回らない。

とりあえず涙を止めようとするが意に反してそれは頬を流れ続けた。

ぽたぽたと床を濡らしていく。

恥ずかしくなって私は背を向けてすみませんと謝った。


「名無しさん。」


 土井先生はそう言うとゆっくり側にきて肩に手を置いた。

じんわりと熱が伝わってくる。

今はその温もりでさえも私の胸を締め付けた。

更に涙が溢れ、もう真面に喋れそうにない。

私は黙って土井先生の声に耳を傾けた。


「私では名無しさんの悩みを解決することができないかもしれません……ですが、側で涙を拭ってあげる事はできます。」


 土井先生は前に来ると大きな手でななしの濡れた頬を撫でた。


「ひとりで泣かないでください。」


 視界が歪んでハッキリとは見えなかったが、土井先生は悲痛な表情をしていた。

どうして土井先生がこんな表情をするんだ。

私の為に心を痛めてくれるなんて。

本当に優しい人。

私は嗚咽を漏らしながら泣いた。

土井先生は俯いたななしの頭を撫でると、落ち着くまで背中をさすってくれた。









 * * *



 ななしは井戸で水を汲んで顔を洗っていた。

洗っているとは言えないかもしれない。

桶に水を汲んで顔を浸けていた。


「…………っ、ぷはぁ〜」


 前髪までびしょびしょに濡れて、傍から見れば何をしているのかと引かれるかもしれない。

水面に映る泣き腫らした目が情けなかった。

あの後、土井先生は深く追及してくることもなく。

何か話せることがあるのならいつでも聞きますから、と言って図書室を出て行った。

私が隠し事をしているのは、お見通しの様だ。

ここに来て初めて全てを打ち明けたいと思った。

仮に全て話したとして、土井先生は一体どんな反応をするんだろうか。

優しい笑顔を思い出すと、嫌厭されるのが怖くて勇気がでない。

私は無意識に胸の前で手を握った。

 それにしても何で土井先生は天井から降りてきたんだろう。

忍者の先生ともなると天井裏を移動するのは当たり前なのか?


「ななしさん!?」


 そんな事を考えていたので、背後から掛けられた声につい奇声を上げそうになってしまった。


「いっ作くん。」

「そんなびしょ濡れで、早く拭かないと風邪を引いてしまいますよ!」


 伊作は懐から手拭いを出すとななしの額に当てた。


「だ、大丈夫だよこれくらい。」


 私は両掌を向けて逃げる様に言う。


「ダメですよちゃんと拭かないと。」


 根っからの保健委員体質のせいか、伊作はやや強引にななしの手を引くと、スルリと流す様に前髪の水滴を拭った。

眉をハの字にした伊作くんと目が合う。

 ななしは見られてしまったと視線を泳がせた。

伊作は充血したななしの目を見てハッと手を止めた。


「ななしさん泣いて」

「泣いてない泣いてない!目に砂が入って洗ってただけなの。」

「……ほんとに?」


 伊作はななしに疑いの眼差しを向ける。


「本当だよ。」


 腑に落ちないといった表情だったが、伊作は「そうですか。」と一先ず納得した様だ。


「充血が酷いみたいだから一度新野先生に診てもらいましょう?」

「そんな大層な……これくらい大丈夫だから。」

「大層なんかじゃないですよ、目は大事ですからね。」


 伊作は思った以上に食い下がってくる。

新野先生に診てもらえば嘘がばれてしまうのではないかとななしは焦った。

どうしよう、今更本当のことなんて言えないし。

がっちりと手首を握られていて逃げられそうもない。

ななしの拒否の態度に、伊作は「じゃあ……」と口を開いた。

私は別の提案をしてくれるのかと期待の視線を向ける。


「僕が診ます。」

「……伊作くんが?」

「はい、僕も一応保健委員長なので。」


 それならいいですよね?と伊作は可愛く首を傾けた。

これ以上は引いてくれないだろうと観念してななしは仕方なく頷いた。

桶を直し伊作に連れられ、ななしは人通りの少ない六年生長屋へ向かった。








 * * *



「ここならあまり人も通らないし大丈夫でしょう。」


 縁側に座るよう促され腰掛ける。


「それじゃあ診ますね。」


 伊作は前に立つとななしの前髪を人差し指で流した。

瞼に触れる事も無く、ただ黙ったまま伊作はななしを見つめた。

真っ直ぐ真剣な視線に緊張する。

見つめ合っている事に耐えられなくなったななしは、思わず目を逸らした。


「ななしさん、逸らさないで僕を見て。」


 僕を見てって……

ななしはそろりと視線を伊作に戻す。

これは診察なのだろうか?

恥ずかしくて顔から火が出そうだ。

伊作は覚悟を決めた様にグッと口を結ぶと、前髪を止めていた手をななしの頭の後ろへ回した。

そして、胸に当てる様に優しくななしの頭を抱き寄せた。

虚を衝かれたと言うべきか。

私はすんなりと伊作くんの腕の中に収まっている。

何が起きたのか理解するのに時間がかかった。

身体全体が心臓になった様に脈打っている。


「い、伊作くん!?」

「……前にも言いましたが、僕はななしさんの力になりたい。」


 その言葉に、ななしの目は落ちそうな程に見開かれた。


「僕だけじゃない、仙蔵や留三郎だってきっとそう思っています。まだ出会ってから一ヵ月も経っていないけど、僕はななしさんを大切な仲間だと思っています。」

「伊作くん……」

「不安で仕方ないですよね、だけどななしさんは一人じゃない。僕たちがいます。大丈夫、焦らずゆっくり思い出していったらいいんです。」


 体が離れ、伊作はにこりと微笑むと、優しくななしの頬を撫でた。

知らぬ間に涙が流れていた。


「また目が腫れてしまいますよ……これを。」


 伊作は用意していた濡れた手拭いをななしに手渡す。


「目元に優しく当ててください。」


 伊作くんが私をここへ連れてきたのは目を診る為じゃなかった。

ななしは涙を隠す様に手拭いを目に当てた。

この世界の人はどうしてこう優しいんだ。


「伊作くん。」

「はい?」

「ありがとう。」


 手拭いの向こうで伊作くんが笑った気がした。









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