「雲間に咲く」

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 心模様を映すように、重厚な黒雲が空を覆い、凄然と涙雨が降り注いでいた。

戦いがあった日から二日が経ち、木ノ葉の里は不気味なほど静寂に包まれている。

ななしは仄暗い定食屋の中で、ひとり格子窓の外を眺めていた。

いつもは人で賑わっている大通りに、崩れた店の外壁が散乱していた。

まだ頭の何処かで、これは悪い夢なのではないかと思っている。

どこもかしこも戦いの傷があって、里の状況を知る度に、被害の甚大さを痛感した。

建物は壊れ、たくさんの人が亡くなり、そして火影を失った。

この不安の中での唯一の救いは、殉職者名簿の通達にカカシさんの名前が無かった事だ。

まだ直接は会えていないけれど、それでも生きている事が確認できて、心から安堵した。

今日は復興作業が中断され、火影様と、里のために戦った忍びたちの葬儀が執り行われている。

たくさんの人が式に参列しているだろう。

当然、カカシさんも。

私みたいな一般人は、火影様と直接関わることなんてないけれど、カカシさんは違う。

面識も有れば、もちろん会話も交わしているし、思い出もあるはずだ。

深く関わった人の死は、例えようのない悲しみがある。

そう思うと、胸を押し潰されるような息苦しさが襲った。

できることならば、一刻も早くカカシさんに会いたい。

会って、それで。

それで……どうしたらいいんだろう。

感情だけが一丁前に先走って、自分の無能さに奥歯を噛み締めた。

結局は自分が顔を見て安心したいだけなのかもしれない。

 ななしは深く息を吐くと再び窓の外に目を向けた。

幸いにも和さんの店は被害がなく無事だった。

しかし、周辺の店に被害が出ていて営業は再開できていない。

通常通り出勤はしているが、炊き出しのお手伝いや、街の瓦礫の片づけに追われていた。

あるようでない休憩を終わらせて、ななしは担当の炊き出し準備の場所へ向かった。

















 * * *



 日もどっぷりと暮れた頃、ようやくななしは帰路についた。

雨が止んでくれたので、暗い気持ちが少しだけ和らいだ気がする。

アパートの階段を上がり家の前までくると、カバンの外ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に刺し込んで回した。

ガチャリと音が鳴ったのと、身体が包まれたのは同時だった。

疲れて鈍くなった頭がハッと覚醒し、息を吞む。


「ななしちゃん……」


 空気に溶けそうなくらいの小さな声だった。


「カカシさん?」


 背中からじんわりと伝わってくる、ほんのり温かい体温。

微かに鼻腔をくすぐったカカシさんの香り。

あぁカカシさんがいる、生きていると、脳が震えた気がした。

視界の端に銀色の髪が垂れて、耳元で僅かに呼吸音が聞こえた。


「お願い……今だけ、許して。」


 一気に視界がぼやけて鼻の奥が痛い。

恥ずかしいくらいに感情が溢れた。


「っ……」


 我慢できずに落ちていく大粒の涙が、カカシさんの紺色の袖を濡らしていく。


「ななしちゃん。」


 ずっと聞きたかったカカシさんの声だ。

ななしは腕の中で振り向くと、つま先立ちで精一杯に背伸びをして、カカシの首に腕を回した。


「会いたかったです。」

「オレもだよ……無事で良かった。」

「カカシさんも、無事で良かった。」


 きっと顔がぐしゃぐしゃになっているだろうが、もうこの際どうでもいい。

すぐ側で鼓膜を震わせる、いつもと変わらない優しくて心地の良いカカシさんの声に、喉の奥が締まるような嬉しさが込み上がった。

こんなにすぐに会うことが出来るなんて。

離れないでほしいという一心で、抱きしめる腕に力を込めた。

カカシはそれに応えるように、ななしの身体を抱き寄せる。

私はただ本能に任せて、心の中で何度もカカシさんと名前を呼んだ。

あの時、死ぬかもしれないと思った時。

カカシさんへの想いが何倍にも膨れ上がって、躊躇している暇なんてないと痛感したのだ。

誰にも、自分にも臆することなく、カカシさんのことを想っていたいと、心から思った。

大切な人、かけがえのない人、失いたくない人。

私はカカシさんが好きだ。

 そっと身体を離して見上げると、涙の膜でぼやける視界にカカシさんの顔が映る。

随分と大胆な事をしてしまったなと今更ながらに思ったが、背中に回った腕が緩まずに包んでくれているのを感じて、受け入れてもらえているのだと安心した。

ななしの瞳から絶え間なく涙が落ちるので、カカシは眉尻を下げ柔らかく目を細めると、濡れた頬に手を添え親指の腹でスッと拭った。


「そんなに泣くと目が腫れちゃうよ。」


 まるで恋人に触れる様な優しい手つきに、ドキッと心臓が跳ねる。

カカシさんの目が、声が、手のひらが。

愛おしそうに私へ向けられている気がした。

唯一見える蒼黒の瞳が離れることなく近くで瞬いて綺麗だ。

表情に引き込まれていると、いつの間にか涙は止まっていた。


「……カカシさん。」

「ん?」


 柔らかそうな髪がゆったりと流れる。

カカシさんは驚くほど悠然としていた。

想いを。

『好きです。』と、伝えてしまいたいのに。

喉元まで出かかった言葉が、勢いを失い飲み込まれていく。


「あ、あの……わたし。」


 弱気になる心と比例して声がすぼんでいく。

気付かれてしまうのではと心配になるくらいに、カカシさんの服を握る手が震えていた。

雨の匂いが残った暗闇に、電灯の明かりが静かに注がれている。

静寂が続く中、カカシは白く力んだななしの手の上に自身の手を重ねた。


「ねぇななしちゃん。」

「……はい。」

「前に商店の所で鉢合って、一緒に帰った日のこと覚えてる?」


 なんの脈絡もなくカカシさんが言うので、張り詰めていた糸が切れた様に「え?」と気の抜けた声が出た。

咄嗟のことに反応できなかっただけで、もちろん記憶にあったので「カカシさんが家までお米を運んでくれた日のことですよね?」と透かさず言い添える。


「そうそう。買い物袋に大きな米を抱えて、危なっかしくて見てられなかったよ。」


 カカシさんがそう言ってクスッと笑うので、「その節はありがとうごさいました。」と耳が熱くなった。


「それで、その時に、オレが困った時は助けてくれるって言ってくれたの。」


 確かに言った。

「覚えています。」と、ななしは深く頷く。

それを聞いてカカシは安心したように目尻を下げ、ななしをしばらく見つめた。


「それって今も有効?」

「もちろん、有効です。」


 言っておきながら、まさか自分が頼られる日が来るとは思っていなかったので、驚きを隠せず目が丸くなる。


「私で力になれるのならば、ぜひ。」


 打って変わって、やる気に満ちたななしの真剣な顔に、カカシは微笑む。


「実は、オレは今まで、ずっと怖くて避けてきたことがあるんだ。」

「怖くて避けていたこと、ですか?」

「そう。」


 木ノ葉の忍びであるカカシさんが怖いと思っていることがあるなんて。

私にはそれが何なのか想像もできなかった。

カカシの凛とした瞳は、自身の心内を曝け出しているとは思えぬほど落ち着いていて、真っ直ぐにななしを映していた。

一呼吸を置き、カカシはゆっくりとマスク越しに口を開いた。


「大切な人をつくることだ。」


 今の私には拒絶ともとれる言葉に息を吞むと、唇に力を入れて強く引き結んだ。

表情を見るに、冗談で言ったのではない。

ドッドッと心臓が軋み悲鳴を上げる。

不安に瞳が揺れ、冷たい汗が背を伝った。


「正確に言うと、大切な人を失うことが怖いからつくらないでいた。」


 私は言葉を無くした。

何を浮かれているのだと冷水を浴びせられた気分だった。

カカシさんには怖いものがないなんて、決してそんなことはないのに。

強くて頼もしくて、いつも明るく朗らかに笑っているから、つい表情を鵜呑みにしてしまっていた。

本当は心の奥で泣いているかもしれないのに。

カカシさんはいつだって最前線で戦っているのだ。

今回の戦いだってそうだった。

どこまでも浅はかで甘い思考でいた私に、カカシさんの言葉が重く圧し掛かる。

私を見下ろす揺らぐことのない瞳に耐え切れず、逃げる様に俯く。

カカシさんに握られた手は、冷たく血の気が引いている気がした。


「里ではエリートだ何だともてはやされているけど、本当は臆病で弱い人間なんだ。」

「そんなこと……」


 言いたいことはたくさんあったが、今口にするとどれも薄っぺらく感じて口を噛んだ。


「だけど今は、前へ進みたいと思ってる。」


 私はハッとした。

顔を伏せたまま目を見開き、煩い鼓動を意識の遠くで聞きながら、恐る恐る顔を上げた。

動揺が滲むななしの視線を絡め取り、カカシはゆったりと微笑む。


「そう思わせてくれる人ができた。」


 カカシはそう言ってななしの頬に触れた。

それはまるで、貴方のことですと言われているようだった。

呼吸を忘れるくらいの衝撃に、私はただ呆然としていた。


「こんな情けない男だから……ななしちゃんさえ良ければ、前に進む勇気をくれないかな。」


 カカシは頬に添えていた手をスルリと下ろし、ななしの目の前に手のひらを向けて差し出した。


「好きなんだ、ななしちゃんのことが。」


 そこには、迷いの無い覚悟を決めた強い眼光があって、胸が焼かれたように苦しくなった。

大切な人を失うかもしれない。

それは、いつだって、誰にだって可能性があることだ。

特に里を守る忍びなら尚更。

カカシさんの想いに応えることも、私が想いを伝えることも、覚悟を持たなければならない。

暗にそう言われているようだった。

カカシさんは既に、たくさんの葛藤を乗り越えて、それでも前へ進もうとしてくれているのだ。

私にもその覚悟があるのか。

止まったはずの涙が再び滲み出し、はらはらと頬を伝い流れる。

私は両手で、差し出されたカカシさんの手を取り包み込んだ。


「私もカカシさんのことが好きです。だから、一緒に進みましょう。」


 泣いているから上手く笑えているか分からないが、震える声で精一杯に想いを伝えた。

カカシは張り詰めていた表情を崩すとななしを胸に抱き寄せ、大きく息を吐いた。


「……ありがとう。」


 心地のいい声音が耳に溶けていく。

頬に触れるベストの奥から、少しだけ早く刻まれる鼓動を感じて、強張っていた身体の力がゆるゆると抜けていった。








2023.03.26
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