「雲間に咲く」
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テーブルの上には、洗って乾かしておいたカカシさん家の土鍋が鎮座している。
返しに行かなくてはと思いながらも、なかなか腰が上がらないでいた。
理由は先日のお姫様抱っこの件だ。
もし仮に、カカシさんが誤解していたとして、そのまま放っておいて良いのだろうか?
……いや、だめに決まっている。
好きな人にそんな勘違いをされていると思うと、むず痒くて耐えられない!
だけど誤解を解くにはどう伝えたらいい?
あれは違うんです、たまたま通りかかったゲンマさんが気を遣って家まで運んでくれただけで…と、そう言うのか?
聞かれてもいない状態でそんな説明をするのは絶対に変だろう。
伝えたところで、どうしてオレに報告するのと聞かれるかもしれないし。
そうなったら全く気にされてない事にショックを受けるだろう。
ならミツに言われた通り告白してみる?
無理だ!絶対に無理!!
私にそんな勇気はない。
フラれて気まずくなって距離を置かれたら、一生立ち直れなくなるかも。
散々悩んだ挙句、今日も返しに行けぬまま私は仕事へ向かった。
* * *
「おはようななし。」
「おはよう。」
「元気ないね。」
ミツはななしの晴れない表情に苦笑いを浮かべた。
「まぁ。」
原因を知っているミツはどうしたものかと首を捻る。
「ななし。」
「なぁにミツ?」
呼ばれて顔を上げると、ミツはななしの両頬をむにゅっと摘まんだ。
意表を突かれ呆気に取られてしまった。
「にゃ、にゃに?」
「可愛い顔が台無しだよ?」
口角を上げた強気な表情が鼻先にあった。
「え・が・お!」
ミツは言葉の通りにニッと歯を見せて笑って見せる。
キョトンとしていた私の頬から指が離れていく。
形を戻した皮膚がほんのりと温かい。
無意識に入っていた肩の力が抜けていった。
私は力みの抜けた頬で笑顔を浮かべ「うん。」と頷いた。
ミツのお陰で仕事は順調に進み、何の問題も無く一日が終わった。
悩んでいたって始まらない、なるようになる。
帰ったらカカシさんに土鍋を返しに行こうと決めて、私は帰路に着いた。
まだ空が明るい中アパートの階段を上がっていると、いつかと同じように最後の一段で足を止めた。
見たことのない女性がカカシさんの家の前に立っていたからだ。
木ノ葉の額当てをしているので間違いなく忍だろう。
その人は私に気づくとキッと目尻を上げた。
鋭い目つき。
私でも分かる。
これは明らかに敵意を向けられていると。
「あなた、定食屋の娘?」
皮膚がピリピリする様な威圧的な声だ。
「そう、ですけど……」
どうして私のことを知っているのかと訝しむと、女性は形の良い唇を歪ませた。
「間抜けな顔。」
初対面でいきなり何なのだと不快に感じ眉を顰める。
「この子のどこが良いのかしら……」
一体何を言っているんだと私の頭は疑問符で埋まった。
見下した様な瞳は鋭く、私の姿を捉えて放さない。
重い空気に呼吸が浅くなるのを感じながら、私は女性から目を離すことができなかった。
「どう見てもあなたじゃカカシと釣り合わないわよ?」
女性は私が動揺して身じろいだのを見て、照準を合わせる様に目を細めた。
気にしていることを指摘されて胸がチクリと痛んだ。
見ず知らずの人にここまで言われ流石にムッとする。
私は内心怖気付きながらも彼女を睨み返した。
「どうして貴方にそんな事を言われなければいけないのですか?」
私の言葉を聞いた女性は感情を顕わにし、正に鬼の形相で一歩二歩と近寄って来た。
それだけで体をギュッと握られる様な感覚がする。
「調子に乗らないで!!」
ドンっと肩を突かれ、私は咄嗟の事に受け身も取れず派手に尻もちをついた。
口からは「うっ」と情けない声が漏れ、痛みで顔が歪む。
「あなたは……あなたなんか………」
先の続かぬ言葉に、痛みで瞑っていた目を開けると、足元にポタポタと水滴が降った。
私はハッとして雫の跡を辿って顔を上げた。
目を見張った。
女性が泣いていたから。
どうして彼女が泣くのか。
尻もちをついて、罵声を浴びせられて。
泣きたいのはこっちなのに。
「……これ以上、カカシに近づかないで。」
研がれた刃物の様に鋭利で冷ややかな声が躊躇なく胸を刺した。
涙で頬が濡れているにも拘らず、振動した空気は冷酷無情なものだった。
握った手が震えた。
恐くて、悔しくて、腹が立って、頭が沸騰した様に熱くなっている。
竦んでいるのか声すら出ない。
例え言い争ったとしても、到底私に勝ち目はないだろうと。
それが分かっているから余計に腹が立った。
私は黙ったまま俯き、無機質なコンクリートをただ見つめた。
彼女は満足したのか鼻を鳴らすとその場を去って行った。
私はしばらくの間、動けずに廊下に座り込んでいた。
一体何だったのだろうか。
会っていきなり、私とカカシさんが釣り合わないって。
彼女はカカシさんのなんなのだ。
親しい間柄なのは理解できたが。
それ以上は考えたくもなかった。
あれだけ騒いでいてカカシさんが家から出てこないという事は留守なのだろう。
家に居なくて良かったと心底思う。
こんなカッコ悪い姿、絶対に見られたくない。
私は体に力を入れて立ち上がる。
打ち付けたお尻がじんじんと痛い。
だけど胸の方がその何倍も痛かった。
玄関に入ると我慢していた涙が溢れてきて、顔があっという間にぐしょぐしょになった。
心臓を突き破るのではと思う程に、色んな感情が膨れ上がって、苦しくてみっともなく声を出して泣いた。
涙は止まることなく流れ続ける。
悔しい……
あの人が言っていたことは何も間違ってないから。
私は弱い。
自分に自信がない。
カカシさんに相応しくないのかもしれない。
釣り合わないと、自分でも思っていた。
だけど、他人に言われると想像以上にキツイものがあった。
言われるだけ言われて、何も言い返せなかった自分にも腹が立つ。
「……情けないなホント。」
気付けば日は落ち、沈んだ心に拍車をかけるかの様に部屋の中は暗闇に包まれた。
* * *
あれから数日が経ち、カカシさんとは一度も顔を合わせていない。
会えていないという事はもちろん土鍋も返せていなくて、綺麗に紙袋に入れて棚の奥に仕舞った。
夏だし、すぐには入り用にならないだろうと自分に言い訳している。
本心は会うのが怖いのだ。
ゲンマさんの事があってカカシさんも私と距離を置いているのかもしれない。
運が良いのか悪いのか。
私は心の中のわだかまりを隠して笑顔で接客していた。
聞いた話、近く中忍試験が始まるらしい。
上忍師のカカシさんは単に忙しいだけなのかもしれない。
そんな希望的観測で今の気持ちを少しも拭うことはできないのだが、私にはそう思う事しかできなかった。
おこがましかったのだ。
カカシさんも私と同じように思ってくれていたらと願って。
あの女の人はカカシさん事をすごく大切に思っているのだろう。
もしかしたらカカシさんもそう思っているかもしれない。
同じ立場に立って物事を考える事が出来て、側でカカシさんを支える事ができる。
きっと彼女の様な人がカカシさんの隣に立つのが相応しいのだろう。
己にそう言い聞かせて、カカシさんの優しい眼差しも、温もりも、思い出さない様に蓋をした。
気持ちを隠してしまうと、随分と楽だった。
私は私のできることをする。
美味しいご飯を食べてもらって笑顔になってもらえればそれでいい。
それでいいのだ。
その日の仕事の帰り、良く知った四人の後ろ姿を見つけた。
黄色とピンクと青、そして銀色。
久しぶりに見た背中は先生らしくシュッと伸びて広く逞しかった。
私は握る手に力を入れて一文字に口を結ぶと、脇道に入って壁に背を付けた。
大丈夫。
この距離なら私には気付いていないだろう。
広がっていく距離に安堵し、私は屋根と屋根の間を流れていく雲を仰ぎ見た。
なに逃げてるんだ私。
傷付くのが怖いからって。
「かっこ悪い。」
私は空から地面へ視線を落とすと、鉢合わない様に遠回りをして家へ帰った。
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