すらだん夢

□先生 神奈川
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神威は体育館を訪れていた。
まだやってんのか。高頭から顧問の打診を受けたは良いがこちらもそこまで暇ではないのだ。前の英語教諭が育休に入っている今年度の顧問を、高頭に昔から世話になっていた神威が直々に頼まれた。
「あー、先生。もう、駄目?」
汗だくのユニフォーム姿で、バスケ部の武藤が入り口に立つ神威に気が付いた。
「あと、どのくらい?」
「牧次第…かな」
苦笑する彼の後ろのコートでは、主将である牧達が白熱の紅白戦を繰り広げている様だ。
「っ…何時になりそうかな…」
あの様子では暫く無理だろう。みるみる神威の顔が曇るが、生徒の為に協力したい気も山々だという複雑な表情で唸るから、武藤は苦笑してしまった。
「先生何時までいる?俺、終わったら鍵取りに準備室行くから」
「八時なら大丈夫。ありがとう、武藤」
「良いよ。じゃあ、八時には行くから」
「うん。怪我すんなよ。何かあったら準備室な!」
「はいはい」
音楽教諭である皇神威。彼女は校内でもちょっとした人気があって、それはほぼ女子からのものだが、武藤は多分その一人なのだ。いつも体育教諭みたいなジャージで歩いていて、髪は短いし女性にしては背が高い。時計は古いごっついロレックスで、車だってシルバーのベンツだから格好良いと女子がキャーキャー言っている。誰にでも親切で、それなのに言葉は乱暴だ。それも良し。
名門海南吹奏楽部の音楽監督で、昔は音楽の授業も担当していたが今は吹奏楽部だけだ。たまたま、音楽教諭の日下が風邪で休んだ時に、二年の武藤と牧のクラスの音楽を臨時で請け負った事があって、その時に武藤は初めてまともに彼女を見たのだ。
『これ、難しいなー。良いかい、今聴いている君達の好きな音楽も百年後にはクラシックって言われるかもな。モーツァルトもバッハもベートーヴェンもさ、その時代では最先端の現代曲だったから、まさかアジアの東の国の教科書に載る程の曲になるとは誰も思わなかった筈だよ。現にバッハなんて忘れられていたからね。音楽の授業はつまらないだろうし、聴いてる曲の意味が分からなくて構わないけどね。ただ、君達の聴いているポップスやロックとかどこでも聴けるあらゆる音楽の基本は全部つまらないクラシックなんだよ。それだけ、覚えておいて。そうすれば、君達の人生が豊かになる。音楽はそう言うものだからさ』
隣の席の牧がへえーっと面白そうに笑ったのも覚えている。その後に、神威がクラスの奴の好きな歌手の曲を弾いて、クラシックっぽく、ロックっぽく、ボサノバっぽく、ジャズっぽくとジャンルを変えて弾いていくと、ああ!なる程と皆が興奮気味に言っていたのも覚えている。武藤はそれも面白いと思っていたが、それよりも何よりも彼女のピアノを弾いて笑っている姿の方に釘付けになっていた。熱心に聴くなと牧に笑われて武藤は苦笑する。日下の弾く綺麗なピアノを子守唄にしてすやすや眠る事が多いからだ。
皇先生ってかっこいーわと紡がれる音に頬杖をつきながら聴いていた。

「武藤、誰か来たのか?」
休憩で牧がコートの外に出てくる。
「ああ、皇先生。いつ鍵閉めたら良いかって。八時には俺鍵取り行くから」
今は七時半だ。そうだ顧問は高頭の推薦で神威になったのだった。牧はほっとしていた。前の顧問はレギュラーの私生活まで管理しようとしていて、まるで私物化しているみたいでやりづらかったのだ。勿論、部員からもマネージャーからも評判が悪かった。だが、やたらと気が強いし教師に反発するのもあれなので気を使ってやり過ごしていた。神威にはそれがないから気が楽だった。
「そうか。皇先生に遅くなってすみませんって言っておいてくれるか?…じゃあ、今日はこれくらいにするか」
高頭は出張だ。マネージャーと一年に片付けの号令をかけると、二、三年は先にシャワー室に向かう。武藤はその列から外れて、ジャージの上を羽織る。少し寒いが下は良いや。体育館から一番遠い音楽準備室に向かった。


合奏室は校舎の一番奥、その手前が準備室で更に手前が授業を行う音楽室だ。その廊下の壁にあるガラスの棚には数々の賞状とトロフィーや楯、壁には写真が沢山貼ってあった。
準備室にだけ灯る灯りが廊下に漏れている。
三回ノックをして中から声が聞こえると武藤は引戸を開けた。
「先生、遅くてすみません」
神威はパソコンを睨み付けていた眼をこちらに向けて、構わないよと笑った。
「武藤、アイスやるよ」
後ろの冷蔵庫からフルーツの小さなアイスキャンディを出すと、夏の残りで申し訳ないけどと言って、ほらっと差し出す。武藤は苦笑しながらそれを受けとる。氷の結晶が細かくついていた。互いに棒の所を掴む形になるから、指にがっつり触ることになった。
「リンゴで良かった?」
指を触ってちょっとドキドキしたのに、神威は何とも思っていないのが、そりゃそうかと少し落胆させられた。
「いや、好き」
そうかと嬉しそうに笑う。好きって言って照れる事はないよなと武藤は自分に苦笑する。別に女子と付き合ったことがないわけではないのにな。大人に恋をするって気構えから違うのかやっぱ。
食べたら行こうと、神威はあーあと椅子の背もたれを使って伸びをする。チャックを締めていないジャージの上着が身体の横に流れ、Tシャツから豊かな膨らみが形をはっきりとさせるから、思わず武藤は眼を反らした。いつもジャージだから気が付かなかった。
「せ、先生ももう帰れんの?」
「うん?ああ、うん。帰るよ。鍵閉めたらちゃんと帰る」
まるで自分に言い聞かせる様に言うから面白くて笑ってしまった。
「ちゃんとって何だよ」
「えー。ははっ、確かに。ちゃんといつも帰ってる」
「先生一人暮らし?」
「そうだよ」
「家近いの?」
「横浜の方」
「げっ、遠くね?」
「思う。神奈川の地理が良く分からなくて先に契約してから来ちゃったからな」
「前どこ?」
「大阪。大栄学園ってとこ」
「バスケ強いぜそこ」
「あ、そうなんだ。他にもいたけど、神奈川は初めて」
「え、先生出身どこ」
「東京」
「はあ?直ぐそこじゃん」
「ねー。変だよな私の頭」
なんで横浜とここが近いと思ったんだろうと首を捻る。変な先生。
「先生、俺さ」
アイスの棒を神威の足下のゴミ箱に捨てると、椅子に座ったままの彼女を見下ろす。
「うん」
「先生の事さ、好きなんだけど…」
「…あー…うん。知ってる、かな」
「はあ!?」
クスクス笑って武藤を見上げて見つめた。
「なっ、え?!」
「知ってるー。お前も変わってんな!」
「なんだよそれ」
「スカートヒラヒラさせた黒髪少女沢山いるのに、どうして、私だよ」
「っ、だ、だって…」
ああもう!と頭を抱えて、放ってあったパイプ椅子に座る。漸く手を離したと思ったらむくれていた。
「…怒ってるの?」
「餓鬼扱いされた」
「未成年だろー武藤は」
「慣れてんの?」
「は?」
「生徒にコクられんの慣れてる?」
「まさか。お前が初めてだわ」
「じゃあ、なんで」
「ピアノ弾いてる時、武藤の視線だけずっとしてたから」
「っ!」
神威は照れるねぇと笑っている。
「俺、本気なんだけど!」
「…駄目だよ。先生、武藤と付き合ったら学校クビになるもん。未成年に手を出す大人はね、変態なのよ」
「知ってっけど!」
「…あのさ、きっとそれは思春期の一時的なものだから。多分、そう言うんじゃないと思うよ」
宥められることとそう言う一過性のものだと自分の気持ちが扱われることに腹が立った。
「っ!!なんだよっ、やっぱ餓鬼扱いじゃなぇか!!」
「止めな武藤。牧がびっくりしてる」
あれと指差す方向に、制服を着た牧が眼を丸くして立っていた。
「っ、牧っ…」
「すまんっ、お前遅いから」
「悪いっ、俺行くわ」
牧の横をすり抜けて走っていってしまった武藤。
「先生、あのっ…大丈夫?」
「大丈夫」
神威は立ち上がると体育館の鍵を牧に渡した。
「後から行くから、先に閉めといてもらえるかな?」
「それは、構わないですけど」
「ありがとう。今の事、他の子に言わないで上げて。武藤が気まずくなるだろうから」
まあ、君は言わないと思うけどと付け足して、ぽんぽんと肩を叩く。
「…先生…」
「ん?」
「あいつ、悪い奴じゃないです」
「知ってる」
「あと少しで卒業ですし…」
「うん」
「答えて上げられませんか?」
え?と驚いて見上げると、牧が困ったように微笑んでいた。
「大学生なら、未成年でも…まあ、ギリ平気ですよね?」
まさかこの子からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「十個位違うんだよ?」
「関係ないと思いますよ。あいつ、後輩とか同学年と付き合って、何か違うってぼやいてたから」
「生意気だねぇ」
まあ、良いやと準備室を閉めた。体育館に戻る牧と荷物をもって歩く。
「先生、今年度で辞めるんですよね?」
「うん。東京で、交響楽団の事務の仕事するの。やっと空きが出たからさ」
「高頭監督が言ってました。…武藤、立教大学決まってますよ」
「そうか」
廊下にきゅっきゅと響く足音。
「…もし、私がそうしたら、君みたいな子は引くかな?」
「え?どういう事ですか?」
「君みたいな、世間的に正しい人間は、どう感じるのかなって」
ああと牧は呟いて、どうかなぁと考える。
「…本人達が良いなら別に」
「そう」
「先生は、武藤が好き?」
「嫌いではないけど…その先を考えるのは今は分からない。制服着てるし」
「制服っ。まあ、何となく分かる」
「制服じゃない武藤を見たら、どうなるか分からないけど」
「じゃあ、試してみたら」
だめ?と笑う牧に神威は苦笑する。
「君は…中々面白いことを言うねぇ」
そんなことを話しているとクツ箱が並ぶ昇降口に着いた。
「俺、やっぱ急ぐから先生お願いします」
はいと鍵を返され、神威は目を丸くする。
「えー。ずるくない?」
「ずるくないずるくない!俺、彼女待たせてるんで!」
「あ!ごめん」
同学年のマネージャーと付き合っていると聞いたことがある。
「平気。先生、さよなら」
「はい。気をつけて」
牧が行ってしまうと、神威はふっと息を吐き出した。体育館の入り口に武藤が脱いだであろう上履きが投げ出してあった。それ一足と言うことは彼しかいないのだろう。神威は意を決して体育館に向かった。


四月の東京。
人が行き交う池袋のルミネ口。ルミネの入り口で武藤はそろそろ仕事が終わる頃かと腕時計を見た。
「武藤っ、ごめん。遅れた」
相変わらず髪が短い。武藤はリーゼント風をやめて緩いパーマを掛けて髪を下ろす様に変えていた。彼女はそれを見てそれも凄く格好良いと微笑んでくれた。
「走らなくて良いって!」
この間捻挫したばかりだと言っていたのに。
「馬鹿、治らなくなるぞ」
「だって…ごめん」
この人は随分人が変わるのだと付き合ってから知った。あの時は男勝りな印象だったのに、付き合うようになって余りに子供っぽいから苦笑してしまった。まあ、それでも構わないのだけれど。
「明日は?部活とか講義はあるの?」
武藤が差し出した手を握って、彼はそれを包むように握り返す。
「今試験休みだからないよ。神威は?」
「私は明後日まで。来週からヨーロッパツアーに同行するから、休みくれたの」
その後は準備の残業だと笑った。初めて聞く話だが突っ掛からない。社会人には各々事情があるのだから。
「そっか。…どこの国?」
「えっと、フランス、スペイン、ドイツ、イタリア、オーストリア、イギリス。確か、三週間かな。お土産買ってくるよ」
「じゃあ、明後日まで、俺神威の家に居て良い?」
「良いけど」
それってっと顔を赤くするから、武藤は苦笑して神威に耳打ちする。
「ちゃんと休憩して上げるからさ」
「っ!!」
「三週間も思春期の男を放っておくんだから、それくらい覚悟してもらわねぇと」
唇を尖らせてから武藤は笑う。
往来の激しい所だから、大丈夫だろうが神威の足は自然と早くなる。
「ほら、足気を付けねぇと!」
「恥ずかしい」
「悪かったよ、もう言わねぇから」
だから、家行こう?と甘えられると神威はうんと頷いた。池袋から丸の内線で三駅の後楽園に神威はマンションを買っていた。ここからだと交響楽団の本拠地のサントリーホールの事務局にも一本で行けるし、芸術劇場の方にも顔を出せる。武藤も神威の家に泊まっても大学まで簡単に行けた。
後楽園で降りるとケンタッキーと飲み物を買って帰る。つい先日成人した武藤に、神威はとっておきのワインを冷蔵庫に冷やしていた。
「ケンタッキーに合うかな」
マンションのオートロックを外しながら、そう言う。
「平気だろ。神威と食べるなら何でも美味いし」
「そう?ありがとう」
私もだよと笑うとエレベーターに乗り込んだ。教員時代に貯金に勤しんだと言うが、都心のこの地に家を買えるなんて凄いことだ。亡き両親から受け継いだ都心の実家を売り払い、それを使わずに貯めておいたのだと教えてくれた。両親の死がショックで遠くの学校を転々としていたが、狙っていた交響楽団の事務局に就職出来たから意を決して東京に戻ったという。
「武藤が居て良かった」
それでも一人で戻るのは辛かったが、武藤がいると思えば大丈夫だと笑っていた。
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