長編『無敵に恋するトリッパー』
□番外編・まわりにあるものは・1
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そのままランプを持って、部屋を出る時に一度だけぐるりとそこを見回した。
壁に張られた漆黒の布、蓋の開いた棺桶、赤いベルベッド布の垂れ下がるの天蓋、壁の一面を埋め尽くす大きなパイプオルガンと、何度観ても同じ光景だが、そのなかでたった一つだけ以前とは違うものがある。
以前は真紅のインクで書かれた楽譜が辺りかまわず散乱していたが、いまその楽譜は一まとめにして書き物机の鍵付きの引きだしに仕舞いこんである。
今は、あの楽譜を書き込むのは休みの時なのだ。
なぜなら、今の私は勝利のドン・ジュアンを書き込む時のような、憎悪と悲嘆だけが全身を埋め尽くしているという状況になどまずならないから。
もしかしたら、あの楽譜に今後ペンを走らせることなどないのかもしれない。
いや、違うな。
私が自分の存在を心から認められる時がきたのだとしたら、その時こそ紙面に再びペンが走ることになるだろう。
その時、私の横にはそっと彼女が寄り添い優しい愛の言葉を呟く、私はただ自分の情熱の迸るままに音をつむぎ出すのさ。
呪われた人生に対する怨念は瞬く間に姿を変えて、至高の愛の喜びを賛辞する歌を歌う。
そう、ドン・ジュアンは終に勝利するのだ。
愛と言う、彼が最後のまでさまよい追い続けた、たった一つのものを手に入れることによって。
いつまでもこの感慨に浸っていたいところだが、今現在彼女のは我が家の居候というだけだ……先は長い。
部屋を出ると、居間はいまだに暗く冷気を帯びていた。
どうやら彼女はまだ眠りから目を覚ましていないらしい。
私はそのまま歩を進め、居間においてある幾つものランプや蜜蝋に順々に明かりをつけていく。
揺らぐ蝋燭の明かり照らされ、ぼんやりと居間の全体像を照らしていく。
本棚に仕舞いきれずに溢れている本は床に幾つもの山を作ってしまっている、また片隅にはテーブルに載せられた実験器具が散乱している他は、まあ、家具やつづれ織りの壁掛けなど怪人が住んでいるには不自然な、どこにでもありそうな平凡な居間だといえるだろう。
もちろん、窓がないということや、壁の一面がそっくりそのまま抜け落ちて、岸辺があり水面が揺れているということを除けばの話なのだが。
そのまま居間の暖炉に火をつけると、食堂を経由して台所に向かう。
なにはともあれ、1日の最初にやることはカフェを入れるためにお湯を沸かすことだ。
そのためにも、まず箱型レンジに火をつける。
この箱型レンジというものは……そうだな。
やや強引な表現になるが、鉄製の四角い箱をイメージしてもらえれば分かりやすいだろうか。
その箱の中で石炭を燃やし、厚くなった鉄板に鍋やらフライパンやらを乗せて加熱調理するのだ。
鉄板を経由するため、炎が直接鍋に当たらず鍋に黒ずみが付くことがない。
他にもレンジは、箱の一部をポケットにしてオーブン機能をつけたり、目には見えないがレンジの奥、半ば壁に埋まるような形で水の詰まったボイラーも併設されていて、調理と同時にお湯を沸かすことも出来るという、優れものだ。
私は近くにストックしてあった古新聞を適当にちぎったものを火種に、石炭を放り込んで火をつけた。
私や彼女は朝食をカフェとパンだけで済ませるので、レンジに火をつけたといっても牛乳を温めるくらいのものなのだが。
カフェ自体は前の晩からすでに淹れてある。
専用のガラス製のポットに4つ割り程度に荒く砕いたコーヒー豆と、水がめからひしゃくで水を淹れ加熱し、それをそのまま一晩置いておくのだ。
当然といえば当然のなりゆきだが、私はここでの生活用水は全て湧き出ているセーヌ川の地下支流を用いている。
地下支流ということもあり、元から比較的水質は良いほうだが、それをろ過装置にかけ、こうして水がめに貯めているというわけさ。
そのろ過装置とは、小さめの樽にめいいっぱい酸性白土を詰め込んだものだ。
樽の上部から水を注ぎ、下につけた蛇口から水がめで受けるのだ。
決して衛生的とはいえないパリや、他にイギリスでも用いていると聞くが、そこではこのろ過装置はごく日常的に使われている。
これをもっと小型にしたものを直接タンクの蛇口に設置する場合もある。
これらのろ過装置を用いることが出来ない場合は、煮沸をするという手段もあるな。
ろ過装置か、煮沸か、どちらか一つを用いて水は飲料用になるのだ。
私と彼女の2人では、1日の飲料水の量など高がしれているから、少しばかりかさばるし時間もかかるが、私はより洗浄能力の高いこの大きなろ過装置を使っている。
そのせいもあり、我が家の水の質は相当に良いものだと自負している。
もっとも。この水をもってしても、彼女はやってきてすぐに腹を下し、数日間寝込む羽目になったがね。
全く、どれほど蝶よ花よと大事に育てられた娘なのだろうか。
それでも歳若い娘が青褪めた顔でベッドに篭ってしまったのは、随分と可哀想なものだった。
その後の調べで、直接的な原因はこの水がめの水ではないと分かったが。
今では用途に関わらず、あらゆる場面で一度ろ過した水を更に煮沸してから飲ませるようにしている。
お湯が沸く間に、食堂の丸テーブルにクロスをひくと、切って籠にもったパンやバター壷、マーマレードの入ったビンも食卓にだした。
食料については私は自分で買いだしに出かけている。
一人の時分は最低限食べていくことが出来ればよかったので、保存の効く物を月に2、3回の割合で買い出していたが、あの子が着てからはそうもいっていられなくなったのでね。
凡そ週に2回から3回の割合で、生鮮食品やパン、牛乳、嗜好品などをかい出している。
思えば、これは彼女がここに訪れてからもっとも増えた私の負担の1つだろう。
それでも今はまだ寒さが強いから食料の保存も効くが、これが夏になったりしたら折角買ってきた牛乳も半日もすれば傷んで飲めなくなってしまう。
今からこの問題はどうするか考えておかなければ。
さて、買い物の愚痴はこれくらいにして、話はカフェに戻るのだが。
コーヒー豆は店ですでに砕いてあるものを買うことが多い。
ミロ自体は持っているから、気が向けば自分でやってもいんだがね。
前述のとおりカフェはもう用意できているので、次はカフェオレボウルと牛乳、砂糖の出番だ。
あの子は本当に苦いものが嫌いなのだから、カフェも大量の牛乳と、私なら胸やけしてしまいそうなほどの砂糖を入れないと飲めないのさ。
砂糖に関しては無精製で糖蜜の混じった物を買ってきて自分で精製しなおすか、最初から精製してある砂糖をかってくるかの2つに分かれる。
無精製のものを買う場合は、これまた面倒なのだが、かなりの長い時間をかけてこれを精製しなおす必要がある。
すなわち、砂糖に泡立てた卵白と水を加えた後、火にかけ何度も沸騰させて絶えず灰汁を取る。
砂糖が透明になったら一度漉して、さらに沸騰させるのだ。
この作業を行うことにより、無精製の砂糖から、約4分の1量の精製した砂糖を取り出すことが出来る。
自分達で精製するにしろ、あらかじめ店で精製してあるにしろ、こうして精製した砂糖は大小さまざまな円錐形に整形しなおして保管してある。
そしてそれを使う祭に専用の砂糖ニッパーで砕くのだ。
私は家で精製などする気はないので、当然のように精製済みのものを購入する。
ニッパーで適当に砕かれ、大小ばらばらになった砂糖は秤にかけられて販売される。
当然だが、砂糖には砕けて粉になってしまったものも、大きな塊りも混じっている。
今回のように溶かしてしまうならこのままでもいいが、粉砂糖が必要なときは、各々が家庭で更にこの砂糖をすり鉢にかけるなどして粉砕する必要があるのだ。
今はあちこちに植民地があり、そこで砂糖を作っているので、相当な安価でこれを購入することが出来る。
さて、この砂糖と牛乳だが。
冷たいまま珈琲と混ぜてもいいが、こちらも彼女の腹具合を案じて火にかけておく。
十分温まったところで直接鍋にカフェを注いで、その時点で半分は私のカフェオレボウルに注いでしまう。
残りの半分には例によってこれでもかというほど砂糖をいれ、混ぜ溶かしてから彼女のカフェオレボウルに注ぐ。
味の方は……………本当に良いのかこれで?
甘い、甘すぎる。
牛乳と砂糖の味だけで、珈琲は風味程度も残っていないぞ?
本来のカフェオレは牛乳を飲むためのものなので、その原理からいけば間違ってはいないが……理解できん。
しまった。
つい1人でいる時のくせがでた。
まさか、あの子はまだ起きてきていないだろうな。
いくら危険視していないからといって、まさか私が自分の飲む珈琲の味見をしているなどとはあの子は終ぞ予想もしないだろう。
そして、そんな光景を見られた日には彼女は悲鳴を上げて部屋に閉じこもり、きっとここで出された食事には一切口をつけなくなる。
私は味見のために珈琲を注いだ小皿を急いで洗って、食器棚に戻した。
白い陶器の表面を走る雫に罪悪感があらわになる。
気をつけなくてはいけない、私は普通の男のように振舞えるような上等な存在ではないのだ。
ああ、あの子にまで忌まわしいと思われたりしたら……。
その後、暫くの間。
私が改めて自制の念を強めていると、背後から声が掛けられた。
「おはよう、エリック。
…ごめんなさい、今日も寝坊しちゃった。」
彼女だ。
案の定、振り向けば綺麗に身支度をした1人の娘がいる。
「ああ、おはよう。
今でも眠そうな顔をしているのは、夜更かしをしているからだな。」
「ずっとフランス語を読み取る勉強をしてたんだよ。」
丁度珈琲を入れ終わったばかり。
まるで図ったかのように良いタイミングで起きてくると、内心で笑いをこぼしながら彼女を食堂へとうながたした。
彼女は私の軽口に、幼い子供のようにわざとらしく頬を膨らましてむくれているが、私が甘いカフェオレの入ったボウルを渡すと、途端に機嫌良さそうに香りを楽しんでいる。
「ほう、それは頼もしい。
それじゃあ、早速のこの後で朗読を披露してもらうか。」
まずいっといった感じで彼女は眉間にシワを作る。
本は本でも、彼女はイラスト入りの雑誌に夢中になっているのだ。
その中に書かれている文章をどれだけ読んでいるのかは私には分からないが。
「…………もうちょっと、上手になってからにするね。」
私と彼女は揃って、温かな食卓へと着いた。
あとがき
朝御飯までの環境報告だよ編、終了です。
でもこんなひたすら説明な文章に、需要はあるのかしら……。