長編『無敵に恋するトリッパー』

□番外編・まわりにあるものは・1
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『まわりにあるものは、目で見え、手でさわれる、人間世界のものばかりだった。』

 不意に意識が覚醒していった。

ゆっくりと目を開けると、寝起きのせいもあり視界は黒い闇で多い尽くされているがそれも一瞬のこと。

徐々に暗がりの中から棺桶の蓋の裏に張ってある赤いシルクが見えてくる。

朝なのだ。

朝日は勿論、蓋をしめた棺桶の中ではすぐさま時間を確認することはできなが、この感覚ならば普段と同じように9時から10時の間といったところだろう。寝返りをうつスペースも反射もないため、私は昨夜の晩に眠りについた時と全く同じ、胸の上で手を組んだ形のままで朝を迎えた。

軋む体を徐々に伸ばしながら、棺桶の蓋を開けると、途端に隙間から冷気が入り込んでくる。

それこそ、幽霊の凍てついた手に体中を撫で回されているような感覚に私はぞわりと体を震わせる。

着の身着のままで棺桶に横たわって睡眠をとるので、夏場はともかく、冬季はさすがに寒さがこたえるにきまっている。

特に他の人間に比べて酷くやせっぽちの私は、体についている筋肉や脂肪自体が少ないので暑さには楽に耐えられても、寒さは厳しく感じるのだ。

ああ、全く。

トンキンに住んでいた頃はここより遥かに劣悪な環境だったが、こと温度に関してだけはましだった。

パリの底冷えのするような寒さが憎らしくてしょうがない。

以前一度だけこのことを口の端にのせると、彼女はさも呆れたという顔で「だったら、毛布を着て寝れば良いんじゃないの?」と至極当然のことを言っている。

しかし、棺桶の中で横たわっている死体が、ぬくぬくと毛布に包まって寝ていると言うのも、絵的にどうかと思うしな。

今のところ、寒さの厳しい時期には厚着をして棺桶の蓋を閉めることで凌いでいるが、歳を重ねるにしたがって骨身にこたえるようになってきている。

やはりここは、毛布をかけて寝るべきだろうか…いや、そんなことはどうでも良いか。



 のっそりと棺桶から這い出した私はそのまま棺桶を置いてある台に腰掛け、直ぐ横においてあるマッチに手を伸ばす。

彼女に言わせると、私が使っているマッチというのは、130年後に使われているマッチとほぼ同じものなのだという。

短く切った木の棒の先端に塩素酸カリウムを塗りぬけ、それをマッチ箱の側面に塗りつけた赤燐にこすりつけて発火させる「安全マッチ」というものだ。

実はこの安全マッチが発明されたのは極最近で、それまでは同じく木の棒の先端に黄燐を塗りつけたマッチを使っていた。

この黄燐のマッチは少しでも摩擦があるものなら何でもこすり付ければ発火するという代物だ。

使いやすいといえば使いやすいが、自然発火起こりやすく、黄燐の毒性も問題視されて今では私は使っていない。

もっとも安全マッチの方は火がつきにくいということもあって、市民の中には未だに好んで黄燐のマッチを使っているものも少なくないがね。

毒性の方はともかく、自然発火の可能性があるというのは私にとっては命取りになりかねん、尻に火がついてバッタが飛び跳ねてしまっては、後からいくや悔やんでも取り返しがつかないのだ。

私だけが死ぬのならばまだ良い、この屋敷にはもう1人、隣の部屋であの娘が今頃可愛らしい寝息を立てているのだから。

どんな宝石も黄金も及ぶことの出来ない、私のたった一つの宝物。

彼女の身に危険が及ぶようなことだけは慎重に排除していかなければいけない。



 私は独特の匂いと共にマッチに灯った火を、今度は手馴れた仕草でオイルランプに移していく。

オペラ座自体はもう何年も前から全館でガス灯を使っているが、それは街の街灯やこの観劇館のような場所でしか用いられていなかった。

一般の家庭でだって今でも広くオイルランプを使っている。

ガス灯の灯りはガスの具合よって変に明かり過ぎたり、逆にあまり明るくなかったりとむらがある上、ガス灯を使っているとその部屋全体が煤で薄黒く汚れてしまうのだ、それに嫌な臭いもあるしな。

勿論オイルランプも掃除を怠ればガラスは直ぐに真っ黒になってしまうが、それでも部屋全体が汚れるよりは遥かにましだろう?

ガスの毒性やガス管を地下に引っ張ってくる手間を考慮しても、普段は蝋燭やオイルランプを使っていれば十分だ。



 ついでだ。ここで、説明してしまおう。

オイルランプのメンテナンスの作業だが。

これは主として、油を射す、どうしてもこぼれてしまうのでそれをふき取る、芯を切る(完璧に切っておかないと嫌な臭いがするのだ)、ガラスのすすを拭くなどの掃除をする、といったものがある。

当然だが、割ってしまったら新しい物を買い足す。

このランプの掃除は非常に面倒くさく、まずランプを外して中を水に溶かしたソーダで洗う必要がある。

そしてガラスの方は、最低でも1日1回はすすを磨くのだ、そうでなければあっと言う間に黒く汚れて明るさを無駄にしてしまう。



 また、オイルランプ以外で、いざ強い明かりが欲しい時は石綿を使えば良いのさ。

それは後に「白熱マントル」と呼ばれているものだ。

仕掛けは、石綿を混ぜこませた小さな布のボールをランプに入れ点火するのさ。

すると見る間に布は燃え尽きてしまい、石綿の危ういボールだけが後に残る。

その石綿のボールは、間違えて蜘蛛がその中に落っこちぶつかってしまうだけで壊れてしまうような、非常に危ういものだが(壊れたときは新しい物を再び作らなければいけない)刺激を加えたり、ランプを揺らしたりさえしなければ、その石綿は白熱して100ワットもの電気と同じだけの強い白色光を発するという、まことに便利な品だ。

目をくらませるような強い光を発するこの道具は、主として拷問部屋を照らし出すのに使われているが、偶に彼女にせがまれて居間でもこの明かりを灯すことがある。

私にしてみれば明るすぎていっそ不愉快なほどだが、不思議なことに彼女はこの灯りが以外に好きらしいからね。

日の光と同じで無上に醜悪を照らし出すこの灯りだが、彼女がこれを見て無邪気に手を叩いて喜ぶ姿は悪いものではない。

何より、煌煌と灯るランプの下でなお、彼女は恐れることなく私にも笑いかけてくれるのだから。



 鯨油を入れたランプを光源に私は着替えを始める。

男の。まして私の着替える様を事細かに伝えるなど、一体誰が聞きたいのか疑問で仕方が無いがまあ、良い。

それまで着ていた服(私は寝巻きは着ない。棺桶に入るときはいつも正装のテイルコートを纏っている)を脱ぎ全裸になると、まずはロング・ジョーンズと呼ばれる下着をはく。

長袖のブリーチズのような下着で、過去に一度だけ……偶々だぞ。

本当に偶々、私の寝室に入ってきた彼女にこの下着を見られたことがあるのだが……今思い出しても羞恥心が込み上げてくる、何であんな場所に不用意に放り出していたんだ私はっ…彼女曰く、ロング・ジョーンズは後世の日本では「ももひき」と呼ばれているものに酷似しているらしい。

彼女はこれを「らくだももひき」と呼び、彼女の父も履いていたのだと、えらく驚き喜んでいた。

らくだももひきか。

まあ、この色合いは上手く表現できていると思うが、何だってあれは男の下着を見てあんなに喜ぶんだ…しかも素肌に直接つける下着なんだぞっっっ。

父親も履いていたというから、私のことを父親とシンクロさせ、懐かしいとでも思ったのだろうか。

まさかとは思うが、他の人間の前では間違ってもそんなことはいわない様注意しないと…まあ。彼女が他人と会話を交わすこと自体、今後はけっしてないのだが。

さて、ロング・ジョーンズを履いた後は靴下だ。私は常に黒い靴下を履く。

この靴下にはサスペンダーが止められるようになっていて、そのゴムを膝にひっかけてずり落ちないように止める。

靴下の次はシャツだ。

まあ、これは特筆するようなところはないが、強いていうならば襟元と袖口だろうか。

硬く糊付けした襟や袖口はスタッドという飾り鋲でシャツにつけていて、取り外しが効くのだ。

と、ここまで説明してしまえば、後は概略でも凡そ察してもらえるのではないだろうか。

ズボンを履き、サスペンダーを締めて。

今は朝食用に黒いガウンを羽織るが、普段はこれにアンダーベスト、テイルコートを着ていく。

アンダーベストと同じ色の白ピケ蝶ネクタイを締め、カフスを留めて、懐中時計の鎖についたT時の金具をベストの第二ボタンホールに引っ掛ける。

当然、この間に靴も履き替える。

それぞれに細かく但し書きをつけていくと以下のようになる。

燕尾服のズボンで特徴的なのは拝絹というものがあり、サイドに絹で2本のラインを非違いているのだ。

またズボンの布地は黒もしくは、私は履かないが地味めな色合いで無地のものが多い。

一方、昼間に履くフロックコートのズボンは横ラインは必要なく、こちらは縞柄やチェック柄が最近の流行だ。

サスペンダーはまあ。労働階級の人間が専らベルトを使うのに対して、サスペンダーを使うのは主にブルジョアの階級だ。

私も普段はこのようにサスペンダーを用いているが、切り穴の修理など大掛かりな作業がある時にはベルトを使う。

アンダーベストは燕尾服に合わせるものは白が正装だと決まっている。

フロックコートに合わせるベストは逆にかなり派手な色柄の物で遊びを聞かせるものらしいがね。

次に着るテイルコート、所謂燕尾服は上着の襟の外側に折り返している部分に、ズボンの横ラインと同じく黒絹を貼り付けてあり、他に特徴的なのは、普通よりもかなり短めな前身ごろに対して、裾の割れた後ろの長く垂れている部分だね。

これが燕の尻尾のように見えることから燕尾服と呼ばれているのだ。

燕尾服は夜会用の正装になるが、私に限っては昼夜を問わず燕尾服を着用している。

考えてもみろ、幽霊が時刻に合わせて着替えをするなど滑稽な話だろう?

ちなみに、燕尾服に対して、正午の正装はフロックコートになる。

こちらも襟元には絹が貼られている。

またこちらは燕尾服とは形状が違い前みごろも後みごろも裾は膝上くらいの長さがある。

ネクタイについては私が占めている蝶ネクタイのほかにも、スカーフ状のクラヴァットや中頃の幅のネクタイを2つ重ねて長くたらすアスコットという種類もある。

懐中時計に関しては、T字の金具から2本のチェーンが伸びていてその一端に時計が、この時計の場合はもう一端にペンダントトップのようなアクセサリーがついている。

アクセサリーはそのままボタンホールから真っ直ぐぶら下げ、時計をポケットにしまうのだ。

銀作りで彫刻の入った時計を開いてみると、針のさす時刻は9時半。

やはり、いつも通りの起床だ。

と、随分長くなったが。

ここまでで、一通りの着替えは終了だな。

洗顔後、仮面と鬘をかぶって、これで私の朝の身支度が終了だ。

…まだ、身支度をしただけだというのに、今日は妙に疲れた気がする。
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