小話

□うどん
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その街には、知る人ぞ知る名店があった。
外装を一言で言うならば、地味。白抜きで「まりえ」と店名の書かれた群青色の暖簾が掛かっているから、辛うじて開店中と分かる。
店内はというと、カウンター席と幾つかのテーブル席こそあるものの、小さな箱に無理矢理詰め込んだかのようだ。お世辞にも、とても居心地がよいとはいえない。
しかし、それがいい。
「こんにちは、青山さん」
そんなことを考えながら、由樹は小さな引き戸を開け、店に足を踏み入れた。いつも通り、客は一人もいない。カウンターの指定席に座ると、厨房のほうから声が聞こえた。
「由樹ちゃん、また来たのか」
店を切り盛りするのは、中学3年生の由樹より干支一回りほど上の青年、青山だ。
一見すると冴えない男だが、実は高学歴であり、数年前までは外資系企業で働いていた。しかも美人の妻と可愛い幼子を持つ。
「そんなこと言わないで下さいよ。売り上げに貢献してるんですよ?」
彼女は、業務用のスープ鍋をかき混ぜながら苦笑する青山を見た。客が来なくとも、秘伝のめんつゆの管理は怠らないらしい。
「またいつものか?」
「駄目ですか?」
「俺の売りはうどんで、アイスじゃないんだけど」
「美味しくて頼むんだから、いいじゃないですかー」
由樹が笑っていると、青山は鍋をかきまぜるのをやめた。顔の汗を袖でぬぐった後、業務用冷蔵庫の方へ歩く。
バニラアイスが入った大きな容器を冷凍室から取り出して作業台に置くと、食器が並ぶ棚からガラスの器を持ち出し、そこにアイスを盛り付ける。
アイスの容器を冷蔵庫に戻し、彼はアイスをカウンターへ運んだ。最後にスプーンを出して、にこやかに言う。
「はい、どうぞ」
「頂きます」
由樹はそう答えると、早速アイスを食べ始めた。甘すぎずしつこくなく、しかし味気無くもない。何度食べても飽きない味だ。
「奥さんとお子さん、元気ですか?」
「まりえは育児に大忙し。明もまことも元気だ。明は小学校だからいいけど、まことはまだ小さい。育児しながら店を手伝ってはくれるけど、俺が頑張らないとな」
「青山さん、カッコいいです。店はガラガラですけどね」
「嘗めるなよ、先代の頃からこうだ。食事の時間帯以外は大体誰も来ない」
確かに、うどん屋に人が入る時間帯は限られている。だが、放課後の塾を終えて寄り道したときも、客はあまりいない。
幼い息子娘と美人妻を考えると、店の行く先を本気で心配しそうになる。
家族存続の心配なら、自分のそれを憂慮するべきではないか。由樹の頭にそれが浮かんだのは、束の間だった。
「話し声がすると思ったら、由樹ちゃんだったのね」
従業員専用のドアが開き、幼子を抱いた女性が現れた。青山の妻、まりえだ。
まりえは由樹の隣の席に座ると微笑した。夫よりも年上であることを感じさせない若さが滲み出ている。
「こんにちは、お邪魔してます」
「ごゆっくり。秀晴のアイス美味しいでしょ、父もそれだけは認めてるわ」
「まりえさんのお父さんが先代なんですよね。奥さんの前で言うのもアレですけど、青山さんのうどんは未完成です」
「秘伝のめんつゆを作れるんだもの、秀晴も成長したのよ。でも、うどんに関しては私のほうがまだまだ上ね。太さや茹で時間なんか、素人の域をちょっと出ただけ」
彼女の微笑みは、いつの間にか苦笑に変わっていた。その声を受けて、厨房からこちらを見ていた青山も苦笑いをする。
「やっぱり、もう少し下積みしたほうがいいんじゃないか?」
「大丈夫、お父さんが認めたんだもの。勿論、雅光さん以上にはなって欲しいけど」
「あれ、雅光さんって主に厨房担当だったっけ。接客してたイメージしか無い」
「貴方が来てたのは夜でしょう、雅光さんは昼間担当だった。茹で加減はお父さんも褒めてたわ」
「何か悔しいな、うどんでも雅光さんを超越するのが当面の目標か」
「頑張ってね」
青山夫妻の会話を聞きながらアイスを食べ終え、由樹は持っていた鞄から財布を取り出した。会計をしたら塾へ向かおう。彼女はそう思っていた。
その前に疑問をひとつ解決したかったので、彼らに訊ねる。
「たまに『雅光さん』が話題になりますよね、その人って誰ですか?」
まりえが口を開きかけたが、それより先に青山が答える。
「由樹ちゃんが常連さんになったのはかなり最近だったな、なら知らないか。俺の永遠のライバル」
「ライバル、ですか。よく分かりません。まりえさんに教えて貰います」
話を聞こうと顔の向きを変えると、まりえは少々躊躇っているようだった。
話せない理由でもあるのだろうか。由樹が考えている間に、彼女は決心をしたらしい。
「雅光さんは明の父親で、私の夫だった人。年上で、カッコよくて素敵な人だった。一緒にここで働いてたんだけど、ある日の夜、働いてる間に心臓発作を起こして。だから古い常連さんは事情を知ってるのよ。秀晴もその一人ね」
「そんなことがあったんですか……」
由樹は驚き、同時に申し訳無くなった。
まりえが躊躇したのは、過去を思い出したくなかったからではないか。気軽に聞いていい話ではなかったのではないか。
「ああ、気にしないで。忘れたいなんて思ってないし、今が幸せなら私はそれでいいの。本当よ。秀晴も同意見」
「そうそう。雅光さん超絶いい人だったから、俺も負けてられない訳。意地でも家族を幸せにしてやるぞって、毎日仏前で宣言してる」
「だったら、もっと上手にうどん作らなきゃね」
「うう……、それを言うなよ」
二人は、由樹が質問したことを全く気にしていないようだった。今が幸せであるという証拠だろうか。
「何か、いいなあ」
心の中だけに留めておくつもりだったのに、彼女は気付けば思いを口に出していた。青山夫妻が首を傾げたのは分かったが、何がいいのかは言わない。
思い出したかのように財布から200円を出し、青山に渡した。鞄を持って椅子から立ち上がると、青山が笑いながら訊ねた。
「また夜も来るのか?」
「今日は天丼セットにします。うどん屋なのにうどん以外も美味しいから、毎日来たって飽きない」
「俺としては、うどんも食べて欲しいんだが……」
「まりえさんが認める腕前になったら、うどんも食べてあげますよ」
二人に別れの挨拶をして、由樹は店を後にした。携帯電話の時計を見ると、間も無く17時だ。
この後は21時まで塾で授業と自習、夕飯をここで済ませたら、すぐ近くにある家へ帰宅する。この生活パターンは、数週間前に確立された。
受験生であるから集中して勉強したいし、何より、出来るだけ家にいたくなかった。
「宿題やらなきゃ」
由樹は足を速めた。


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