小話

□非常に突飛なイ短調
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とあるアパートの最上部。滅多に人が訪れないその場所に、あたしは一人で佇んでいた。
別に、今からこの世に別れを告げるとか、そういうことじゃない。ただ、一人になりたいときは決まって此処に来る、それだけの話だ。
高校生の頃はあんなにも憧れていた大学生活も、いざ始まってみると案外つまらない。面白い講義も幾つかはあるし、気の合う友人だってゼミのときに何人か見付けた。
それでも、心から楽しいと感じる出来事には出会えない。
「暇……」
学校から徒歩数分のこのアパートで暮らし始めてから、もうすぐ二ヶ月が過ぎる。
家事には慣れてきたが、バイトをする余裕はまだ無い。高校生の時のバイト代を切り崩しつつ、親からの仕送りに頼っている状況だ。
それでも十分だから、別にバイトしなくてもいいかな、なんて思っていたりもする。
だからといって、興味のあるサークルも無い。歌うことは昔から好きだが、合唱部は本気だし、軽音楽同好会は所謂飲みサーだ。その中間にあって、尚且つ惹かれるものが無い。
「いいことだって特に無いし、つまらん」
面白いことが無いということは、つまらないということだ。
他に誰も聞いている人などいないと思ったので、割と大きな声で言ってみた。
何だかスカッとする。
「つまらん! つまらんつまらんつまらん!」
鬱憤を大声で晴らすのは、非常に気分がいい。
平日の昼間から高層アパートの屋上で叫ぶ女子大生というのは、何と無く異様な気もするが。
「ロック歌手みたいに叫んじゃって、何がそんなにつまんないの?」
青年の声だ。吃驚して振り向くと、その青年は笑いを堪えているようだった。
茶色に染められた短い髪、Tシャツにジーンズというラフなスタイル。
あたしは彼を見たことがある。同じ大学の同学年、渋井計だ。
「つまんないなら、付き合ってみる? 絶対世界変わるぜ」
「は?」
噂通り。
あたしは溜め息を吐いた。こんなに軽い男なのに、肩書きは首席入学者だから余計に腹が立つ。
入学式で隣に座った同級生と付き合い、ガイダンスで知り合った二浪の年上と付き合い、大学図書館の利用法を教えてくれた先輩と付き合った男。今度は同じアパートに住むあたしが標的か。
「ごめん、誤解したよな、言い直すよ。オレに付き合ってみる?」
「に?」
渋井が何故その格助詞を使用したのか、あたしには理解が出来なかった。
誰かと恋人関係になりたいときに世間一般が使うのは、『に』ではなくて『と』ではないだろうか。
「そう、に。知ってるかもだけど、オレは作曲が趣味だしピアノが弾ける。加賀屋貴那……だっけ、歌上手いんだろ?」
「上手いかは知らないけど、好きではある」
「やっぱあの情報は正しかったのか、それなら話は早い。バンド組もうぜ。加賀屋さえよければだけど」
何だか急展開だ。
何故、名前を知られているのだろう。渋井の人生をRPGに例えたら、きっとあたしは大した情報を持たない町人辺りだろうに。
「もし『つまらん』かったら、やめてもいいしさ。オレだって美声だし、弾き語りは出来るから」
渋井は笑いながら此方に近付いてきた。あたしは何と答えるべきか迷った。
確かに、美しいかはともかく男声とピアノと一緒に歌えたら、とても楽しいとは思う。
けれど、話を持ちかけてきたのはよりによってあの渋井だ。チャラいと評判の男と行動を共にしたら、何か疑われてしまう気もする。
「ほ……本当にあたしでいい訳?」
妙に緊張して、思わず吃ってしまった。
彼は尚も笑いながら、あたしのすぐ近くのフェンスに背中から寄り掛かる。よく見ると顔立ちがいい。要するにイケメンだ。
緊張しすぎて逆に肩の力が抜ける。
「何だね、その疑り深い目は。オレは加賀屋のこと全然タイプじゃないし、恋人いるし、恋愛感情から近付いた訳じゃないんだけど?」
「それならよかった。渋井の女関係の噂よく聞くから、もしあたしがストライクゾーン内にいたら色々と被害者になるかもと思ったもんで……」
言ってから、初対面の相手に向ける言葉ではないと気付いた。
全然タイプじゃないという彼の発言に、少しの怒りを覚えたからか。勢いで言っていいことにだって限界はある気がする。
まあ、言ってしまったものはどうしようもない。
あたしは男女問わず友人達から毒舌と評される女だ。寛容でいてくれないと、円滑なバンドにはならない。
「へ?」
あたしの考えを他所に、彼は首を傾げた。
「オレの噂っていうと、入学してから今日で五人の女と付き合ってるっていう噂かな。あれ全部向こう側の勘違いと浮気だから。加賀屋だけだぜ、『に』を理解したの」
つまり、あたし以外にもバンドを組めそうな相手を見付けていたらしい。
その相手に誤解されたり、或いは好意を抱いたものの捨てられた、被害者ということか。
案外、遠い存在じゃないのかも知れない。
彼が戦士なら、今のあたしは贔屓にしてる宿屋の店員辺りだろう。あたしみたいな人は沢山いるし、彼にとって一時的な存在だろうから。
「と、渋井はあくまでも被害者を主張するのか。それもそれで浮気性って証明してる気がするけど、あたしでいいならバンドに付き合う。でも、つまらん認定したら即やめることが条件ね」
「勿論。早速、歌って欲しい曲があるんだけど、いい?」
「いい、けど……あたしが歌えるような内容?」
何て突然な奴だ。そう思いながら、あたしは渋井の笑顔に応じる。
終始向こうのペースなのは気に食わないが、打開策は見付からないから仕方無い。
あたしの問いに対して説明するよりも聴かせる方が早いと判断したのか、彼はあたしに音楽プレーヤーのイヤホンを渡した。
「流すよ」
耳の中にピアノの音が流れ出す。
やっとこれから何かが始まる。気のせいかそんな曲に聴こえた。


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