小話

□両替屋
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誰にでも願いというものはある。それは叶えたいだけでなく、叶えなければならない願いだと知っている。
強く望んでも叶わないなら、尚更。


見上げた空は曇っていた。もうすぐ三月だというのに、雪が降る気配さえする。
携帯電話を片手に平謝りするサラリーマンや、互いが互いを拒絶していない確認の為に手を繋ぐ男女のを間をすり抜けて、原美奈子は帰路を歩いていた。
駅前とはいえ、数軒のコンビニと飲食店以外、その通りには何も無かった。
「あー、苛々する」
美奈子は、自宅から徒歩圏にある公立高校に通う、高校一年生だ。
共学校とはいえ、彼女の高い望みを満たす同年代の男性はそこにいない。学校での授業は退屈でしかなく、授業中に炸裂する駄洒落など全く笑えない。休み時間になれば彼女以外の女子は『グループ』で固まって行動する。
「あんな場所の存在意義なんて」
下らないと心中で呟き、彼女はいつもの楽器屋を目指した。そこには小さなスタジオがあり、様々なアマチュアバンドがしょっちゅう演奏をしている。そこにいるとき、彼女は学校で一度も得ない『楽しい』を心から感じられるのだった。
今日も、そして明日もそのあともずっと、『楽しい』を心の中に留めて置きたいと強く思う。
「……あ、明日の教科書代両替しなきゃ」
学校が楽しくないとはいえ、来年度に必要なものは買わなければならないと美奈子は認識していた。釣り銭無しでないといけないという担任の言葉を思い出したので、持っていた一万円を崩そうと手頃な店を探した。
「……何、此処」
確か空き店舗だった筈なのに。
駅に続く横断歩道のすぐ目の前にある小さなビルを見て、そう思った。その四階建ての建物は一階と二階がカフェになっていて、三階は空き店舗、四階は何かの事務所だ。
その筈なのにどうして、『両替屋』という文字が看板に?
「まあいいや」
深く考えずに、美奈子はそのビルの三階に向かった。階段を上がると、目の前に金属製のノブが付いた扉がある。ノックをしてみた。
「久々の客か。やはり検索ワードを増やすべきだな」
声と共に、扉は内側に開いた。美奈子はそれに触っていないので、自動ドアかと思った。しかし考え直してみると、この古びた建物の空き店舗であった場所に、それは似合わないように思えた。
「何だ、客ではないのか?」
訝っていると声が聞こえた。
「……え、あ、客です客です」
美奈子は言いながら、扉の向こう側に足を踏み入れた。そこには何もなく、ただ質素なデザインの椅子が二脚、部屋の中央にあっただけだった。床のところどころに埃があり、駅前通りを見渡せる窓は汚れていた。
「客か。なら早速だ。何と両替したいと望む?」
声の主は少年だった。身長は美奈子と同じくらいあるが、その声はさほど低くない。髪は黒く、服装も何処か中学生めいている。
しかし、何よりも印象的であったのは、左肩から胸の辺りに掛けての、切り傷を縫合した痕だった。
「一万円しか持ってないから、千円札十枚と換えたいんだけど」
彼女はますます不審に思いつつ、用件を伝えた。考えてみれば不可解な点は多々ある。
「何を言う? そのようなことは無理だ」
「は?」
「この両替屋の店主である岡崎健斗は、人間の欲望を両替するのだ」
「え?」
突然に何を言い出すのだろう。美奈子がそう思っていると、岡崎健斗は無愛想な顔で続けた。
「理解出来ないだろうな。僕が何者であるかを話せば時間が掛かるので省略する。御前の名は……原美奈子か」
「言ってないのに何で分かったの」
「少なくとも僕が人智を越えた存在であることを証明したのみ。さあ、望め。羊の歩みに一抹の希望を与えてやろう」
感情の無い顔で、健斗は美奈子に近付いてきた。彼女の腕を掴み、椅子にいざなうと座らせる。そして彼ももう一つの椅子に座った。その際彼からは、貴金属が擦れ合うような小さな物音がした。
鎖か何かでも隠し持っているのだろうか。一瞬身の危険を覚えたが、それよりも彼の言葉の真意を知りたかった。
「望み?」
「そうだ。金、地位、名誉、運、夢、記憶、感情、その他。僕に叶えられないものは無いのだ。原美奈子、御前は何を望む?」
健斗の言葉は、美奈子に響いた。
望み。
何の彩りもない日常生活と、小一時間ほど与えられる快楽。今自分が一番欲しているのは何だろう。答えはすぐに出る。
「『楽しい』が欲しい」
「叶えてやろう」
彼は上着を脱ぎ、椅子の背凭れに引っ掛けた。上着の下に着ていたのは、季節感を無視したタンクトップ。
しかしそれよりも、彼の左肩近くにある枷から腕に巻き付いている鎖に驚いた。クナイに似た鋭利な金属が、その先から伸びている。
「何なの」
「これを刺した者の寿命を、ある分量だけ抽出する。人間的に言うと注射針であろう。但し痛みは無い」
健斗は鎖を腕から外し、針の部分を手に取った。かと思うと、それは美奈子の左肩に突き刺さっていた。
不思議なことに、刺された感覚は全く無かった。
「痛くないだろう? 抜いたところで血液は少しも出ない。無くなるのは寿命のみだ」
言いながら、彼は鎖を引いた。針を抜き、鎖を元のように戻すと、相変わらず無表情のまま上着を羽織る。
「え……ちょっと、何したの」
何が起きたのか全く理解出来ず、美奈子は慌てた。
「『楽しい』の対価を頂戴したまで。両替終了だ」
「対価?」
「物分かりの悪い小娘だな。明日から『楽しい』が続いていくぞ。御前の寿命と引き換えに」
面倒臭そうに言うと、健斗は右手を鳴らした。瞬間、出入り口が開く。
「小娘って……中学生みたいなカッコのくせに」
「僕の心臓は御前より遥かに多く動いている。……いや、人間と比較するまでもない。とにかく、原美奈子の望みは叶えられた。まだ望むか。望まないのなら去れ」
言われるがままに、美奈子はそこを後にした。階段を降りてビルから離れるにつれて、不気味な気配が遠退くのを感じた。


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