小話

□立役者
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バスを降りると、後ろで足音がした。此処から乗り降りしてるのは私だけなのに、誰だろう。
振り返ると、彼だった。
「え……?」
驚きの余り、声に出た。
「……そうか」
彼は無表情のまま、言った。
「えっと、どうしたんですか……?」
「伝えることがある。あの運転手は週に一度、いつもの時間にこの地域を担当する。
 月曜日、次は水曜日、そして金曜日。その日は1つ早いものに乗れば、危険から逃れられる」
もしかして彼は、この辺のバスの常連客に、そのことを言って回っているのかもしれない。だから皆、回避するんだろう。
……親切な人だ。でも、私は今のままでいい。
「済みません」
そう言うと、彼は困った顔をした。
「私、あの運転手さんのハンドル裁き、好きだから」
更に困った顔。少しの沈黙の後、彼は呟いた。
「物好きだな」
「そっちこそ。分かってるのに、乗ってる」
矛盾とも思える点を指摘すると、彼の顔はまた違う表情をした。苦笑いだ。
「……それは」
気になるから、口ごもる彼に
「それは?」
続きを促す。
「貴方が余りにも危なっかしいから」
「……え?」
どういうことだろう。
「ええと、つまり、……一目惚れした訳で」
ひとめぼれ。
「ええっ?」
もう驚くしかない。
「ああ……迷惑だったか……名前も知らない奴にそんなこと言われたら……。
 何でもない。ごめん、聞き流してくれて構わない」
彼は下を向いた。顔が見えないけど、多分無表情なんだろう。笑うと、素敵なのに。
「笑って下さい。私が好きなのは、笑ってる貴方だから」
いつも気に掛けてくれる貴方が好きで、笑ってくれたらもっと好きになれる。
……気付いたらそんなこと考えてる私がいて、何だか不思議だった。
一目惚れされたのも、誰かのこと好きって思ったのも、初めてだったから、余計に。
彼は顔を上げた。やっぱり無表情だ。
「貴方を好きでいて、いいのか?」
「私も貴方が好きだから」
躊躇いは無かった。
私は彼の名前を知らないけど、笑ってるところを知っている。
「……ごめん、あんまり笑えなくて」
「謝るよりも、お礼が欲しい」
いつだったか、無表情以外の彼の顔を初めて見たときに、彼が言ってた言葉が頭に浮かんだ。
彼は少し驚いたような顔をした後に、
「笑わせてくれて、有り難う」
何だか照れ臭そうに、笑う。その表情が嬉しくて、私もつられた。
「有り難うって言ってくれて、有り難う」
笑い合う私達の前を、回送バスが猛スピードで走り去った。



――……有り難う。貴方の御陰だから。
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