甘味鳩

□柩
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10月5日

この日の尾崎医院は、今までの慌ただしさが嘘のように静かだった。
安森工務店の安森節子は、入院の甲斐もなく、今朝冷たくなって夫と邂逅した。
あそこまで熱心に治療していた尾崎敏夫は、まるで何かに取り付かれているように律子の目に映った。
そして今し方、事務として働いていた十和田から病院を辞めるとの連絡があった。
嫌なことは立て続けに起こるものである。
再び、休憩室に置いてある電話が鳴った。

「はい、尾崎医院です。」

受話器を取った律子は、電話越しの声に耳を傾ける。
そして慌てた様子で受話器を置き、休憩室から飛び出した。

「ちょっと、律っちゃん!?」

同僚の声も振り切って、律子は真っ先に尾崎の元へ向かった。

「急患です、先生!」

「あぁ・・・」

のっそりと椅子から立ち上がる尾崎。
今急患と言われれば、頭に浮かぶのはあれしかない。

「で、どこの家だ?」

「凪紗ちゃんです。」




【回覧板届けに行ったら、玄関が開いていたのよ。
おかしいなと思って覗いてみたら、凪紗ちゃんが倒れていたんですよ!
もう私びっくりしちゃって、とりあえず病院に電話しなくちゃと思って。】

律子が見守る中、尾崎は凪紗を診察する。
目立った外傷はなく、ただひたすら眠っているようにも見える。
ふと目をやった首筋に、小さな赤い傷があるのが分かった。
あぁ、と尾崎は心の中でため息をつく。
父親に続き、この娘までも、起き上がりに襲われたのか。

「先生、凪紗ちゃんは?」

「貧血だな。」

「そんな・・・」

この夏からの疫病、律子は彼女の父親もそれで亡くなったのを思い出した。

「凪紗ちゃんは入院させよう。
まだ若い。回復の見込みがあるかもしれない。」

「分かりました。じゃあ私、みんなに伝えてきます。」

「頼んだよ、律っちゃん。」

ぱたぱたと足音を立てて律子は治療室から出て行った。
尾崎は未だ眠り続ける凪紗を見下ろす。
安森節子と同様に治療すれば回復は見込めるが、起き上がりが彼女を襲ってこない保証はない。
それならいっそ、そのまま放置して彼女を起き上がりにしてしまおうか。
奴らのサンプルが手にはいるかもしれない。
しかし、そう考えたものの、凪紗にそれほど重篤な症状は出ていなかった。
本当にただ眠っているだけだ。

「君はどうして襲われたんだ、凪紗ちゃん。」

そういえば、と尾崎は記憶を遡る。
清水恵の死について、彼女は疑問を持っていたではないか。
自分と同じように、この夏の異変が起き上がりによるものだと感づいていたのではないのか。
真実に近づき、彼らを狩ろうとしたから襲われたのか。

「早く、目覚めてくれ。」

協力者は、一人でも多い方が望ましい。
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