誕生

兵庫県西宮市の病院で生まれました。

遠い夏の日…

私は生まれ、母は亡くなりました。

急性心衰弱と記載されている母子手帳…

ハッキリしたことを、今も私は知らない。

病院側が謝罪した…

不手際…医療ミス…

おそらく、母は事故に遭遇してしまったんだろう…

原因なんて何でもイイ…

母は戻らないって事実。
私が生まれたって事実。
それは、何がどうでも変わらない…


原因を追求する気力も、病院・医師を恨む力も何もなかったらしい。

父にも、
家族たちにも、
勿論、私にも…


「ひろみ」と名付けられた私。

母、廣子の「ひろ」を貰い…
母の分も永く幸せでいて欲しいと言う
願いと…

縦書きにすると、なだらかに流れるような軟らかい優しい「ひろみ」…

この先、どんなことがあったとしても、
投げ出すことなく、自分の人生を受け入れ、なだらかに流されて生きるようにって願いが込められているらしい。

なんて素敵なんだろう。


私は父方の祖父母に育てられることになった。

10歳12歳15歳のお兄ちゃんと17歳のお姉ちゃんがいた。
父の妹弟たち…


遠い昔…ぼんやりとした記憶…
今も「ぬくもり」が残っている。


父は再婚した…
多分、私が3才くらいの時。

弟が生まれ、妹も生まれ、
お姉ちゃんになれた。


父は時々、会いに来てくれた。
結局、父とは一緒に暮らすことがないまま、祖父母に育てられた。




小学校...
片道3キロを歩いた。

「道草」「寄り道」虫を見つけたり、
クローバーで首飾り作ったり、
ノドが渇いてお茶を貰ったり
トイレを借りたり…
体力・精神力が養われた。


中学校…
ココもとんでもなく遠かった。
片道9キロ。
自転車通学。大きな坂がいくつかあった。

我が家から3キロ地点で瞳ちゃんと合流。
いつも、待たせたね〜
今みたいに携帯があったら、ちょっと遅れるって知らせることもできたんだけどなぁ。

カワユイ2人はチャリンコ暴走もありだった。
大きな長い坂道を「立ち漕ぎ」したりなんて〜当たり前だったよ。


部活が終わって帰るとクタクタだったなぁ。

「彼」ができたのは中A
カワイイ話なんだけど、ひたすら手紙と電話を待ち続けた。
長電話の常習犯で、非難されながらも頑張ってた。
今みたいに携帯もないし…
コードレスでもなくて、
電話がかかってくると、おじいちゃんが出て「今、ひろみは居ない」って〜
すぐ隣りに私が居てもね〜



母が恋しくて泣いていたのも、多感な中学生の頃。
人生を選択する時に、そばに居て欲しかった。
その頃からかなぁ?
「お母さんだったら…」って、私自身の中に、母を同居させてしまうようになったのは。
          
15歳…
私が選んだ進路。
衛生看護科☆
看護師を目指した私…

親元離れて寮生活。
泣いた泣いた。
月に1度しか帰れない。
友達にも会えない。
勿論、彼にも会えない。
3年間で5回しか会えなかった。
「会えない時間が愛育てるのさ〜」なんて郷ひろみの歌をよく口ずさんだなぁ。
          
3年間…
私の人生において、かけがえのない友達にも巡り合えた。


そして、ココ「浜松」の短大に...

キッカケは航空ショーでのブルーインパルスの墜落事故。
医療設備の充実した土地に興味を持った。

講義が終わるとバイト…
ハードな毎日だった。
でも、すごく楽しかったなぁ。


5年間付き合っていた彼との別れがあった。



やがて結婚相手となった浩ちゃんとの出会いもあった。


あれから、
ずっと浜松。





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