短編

□むげつ/有月
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そうそう、と言って、母は冷蔵庫から何やら取り出した。
「あ、すりりんごジュースか」
 私が好きだと言ってから、毎年この時期になると祖母から送られてくるそのジュースは、すりおろした林檎入りの百パーセントジュースだった。
「そうよー、あんた全然飲む素振りないから半分は使っちゃったわ。でもちょっと薄かったかもしれないわね」
 私の隣に座ると、母は自分も食パンを口に含んだ。
「うん、やっぱりちょっと薄いわね」
「届いてたのすっかり忘れてた」
 パンをちぎる手が、二人して止まらない。
「そうね、最近忙しいみたいじゃない?」
「元々忙しかったわよ」
「あらそう?」
「そうだよ。それにしても、パンおいしいね。懐かしい」
「うん、昔よりおいしい」
 母は満足そうに、うんうんと頷いた。
「え?」
「小麦粉はちゃんとふるいにかけて、時間がかかってもじっくり生地は発酵させて。丁寧にやれば丁寧な味になるものね」
 確かにいくら食べていっても、昔時々混ざっていた小麦粉の固まりは見当たらない。
本当においしいけれど、さすがに幼い記憶の中の味とは比べようがなかった。
「なんでいきなりそんなこだわりを」
「昔より悪くなるだけでしょ、よくならなきゃ」
「そういうもん?」
「そういうもんよ」
 自信たっぷりに、母は頷く。頷いて、またパンをちぎって頬張った。
「悪くなる一方じゃない?」
「そりゃあんたの肌の状況はひどいかもしれないけどね」
 私の顔も見ずに、口をもごもごさせながら母は言い切った。
「あ、やっぱり思ってた?」
「その年でそれじゃちょっとね。でも、パンはおいしいでしょ」
 そう言って、母は皿の上の最後の一欠をつまんで口に入れてしまった。
「あー」
「残りは明日の朝ごはん。ほら、先にお風呂入っちゃいなさい、お父さんが出たばっかりだからあったかいわよ」
 しばらくいじけて見せてから、素直に従うことにした。
「あら、今日は珍しいのね」
「うん、早くお風呂入って早く寝る」
「あらあら、明日は雪かしら」
「うるさいなー。朝刊読んでから出かけるだけだよ。コートのボタンも取れちゃったからつけないといけないの」
 にやにやしている母に背を向け、浴室に向かう。
前から歩いてくる父より先に、今日はただいまを言った。

湯気の立ちこめるバスルームが、まだ冷えていた体の芯をじわりと温めていく。
シャワーのコックをひねり、何気なく見やった湯気の向こう、窓越しに月が見えた。
霜が降りたように白い、丸くなりかけの上弦の月がしれっとした顔で私を見ている。
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