短編

□むげつ/有月
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近づいてくる足音で、我に返った。
足早の歩調はあっという間に遠ざかっていく。
私はハンカチで涙を拭い去ると、玄関のドアを開けた。
こんな夜中に、ふわりとした小麦粉の匂いがする。
香ばしい、何かの焼けるこの匂いは何だっただろうか。
思い出せないまま、私はキッチンに足を踏み入れた。

エプロンをかけた母が、そわそわした後ろ姿をこちらに向けている。
振り返った母の顔は何やら楽しそうで、目尻に笑い皺が何本も寄っていた。
「おかえりなさい」
「ただいま。何してんの?」
 ふふ、と笑って母は、体を横にずらして流し台の横に置かれた機械を私に見せた。
「あ」
「そう、久々に焼きたくなっちゃった」
 それは年代物のパン焼き機で、パン生地を作ったり、食パンならそのまま生地を入れれば焼き上げたりしてくれる当時の最新機種だった。
子どもの頃、母がよくソーセージパンやパウンドケーキを作ってくれたこの機械も、見かけなくなってからずいぶん久しい。
「それにしても、どうしてこんな」
「だって暇なんだもの」
 私が大きくなってからパートに出始めた母には暇がなかったし、更年期のせいでだいぶひどい鬱に悩むようになってからは無論それどころではなかった。
ようやく症状は安定してきたものの、パートも辞めてしまい、時間を持て余している母は再放送のドラマばかり見ていた。
母のために時間を作りたいと思いつつ仕事に追われてばかりの自分が、こんなとき何より嫌になる。

ピピ、ピピと焼き上がりのブザーが鳴る。
ちょうどよかった、と母は嬉しそうに微笑んだ。
「お腹空いてるでしょ。ちょっと味見してみない?」
「うん」
 母がミトンをした手で型を取り出し、まな板の上でひっくり返すと、ころん、とその上に食パンが乗った。
熱い熱いと言いながら、母がパン用の包丁で二等分する。
「昔みたいに、そのままちぎって食べていいわよ」
「またそんな子供扱いしてー」
 皿に乗せて渡された半分の食パンをダイニングテーブルに置いて、椅子に腰かける。
焼きたてのパンはかなりの熱を持っていて、なかなかちぎれない。
ようやくちぎって口に入れると、耳はカリカリで、中がもちもちしている。
熱さとともにふわりとパンの香りがした。
「おいしい?」
 尋ねてくる母に、何度も頷いた。
子供の頃と同じ、焼き立てパンを頬張る幸せが胸にじわりと広がってくる。
そのうち、舌の上にかすかに懐かしいような、それでいて初めて味わうような風味が広がってきた。
「これ、シナモンか何かいれた? りんごっぽいような気もするんだけど……」
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