短編

□むげつ/有月
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「どうかしましたか、つぐみさん」
慎次君だった。
心の芯がびりびりとふるえる。
触れるだけでこんなに悲しくなるほど冷たい手の持ち主を、私は他に知らない。
不思議そうにこちらを眺めている顔も私を呼ぶ声も、悲しい冷たい手も、五年前とまったく変わっていない。
疲れた私のよりも全然綺麗なすべすべした肌とか、ジャケットの下のシャツから覗く鎖骨とか、大好きだった細部まで、大学の頃とひとつも違わない。
どうして慎次君がこんなところにいるんだろう。
「僕もまだ歩きたい気分だし、散歩でもしませんか」
「散歩って、どこを?」
 こんな家しかない街の、どこを歩くというのだろう。
「ちょっと歩けば公園がありますから、そっちの方まで。行ってみませんか?」
 公園て言ったって市民公園まではかなりの距離が、そう思って私はようやく、ここが霧に包まれた神楽坂であることに気がついた。

思わず声を上げそうになったものの、慎次君が私の手を引いて先へ行こうとするのにまかせて、そのまま歩き出してしまった。
街路樹から行き交う人々の様子まで、どうも見たことがあるような気がする。
きょろきょろしながら坂を下っていて、ようやく思い出した。
きっとそろそろ、
「つぐみさん、ちょっとこっち、見てください」
 急な坂を中心に何本も入り込んでいる路地のひとつの前で、慎次君が足を止めた。
私たちの立っている歩道の先の路地は石畳になっていて、この奥には料亭やら和雑貨の店やらが点々としている。
「うん、こっちには」
「ガス灯があるんですよ、ここ」
 そういって赤々と燃えるガス灯を指す慎次君の指で、私は確信した。
これはあの日、私と慎次君の三回目のデートの日だ。
講義が終わる時間に待ち合わせて、おまんじゅうを出すカフェで一杯だけワインを飲んだあの後なのだ。
その証拠に、まだ新品のコートのボタンは何事もなかったように全部揃っている。
空いている左手で触れた私の頬も、しっとりと指に吸いついて確かな弾力を返してきた。
「ってあれ、もしかして知ってました?」
「ううん。素敵だね、今時ガス灯なんて」
「ここを入って右に曲がったところに、喫茶店があるんですよ。
看板は知ってたんですけど、この前ようやく場所がわかったんです」
 今度一緒に来ませんか、と誘われたカフェも、五年後の私は知っていた。
うん、と答えた声が五年前と同じように疑いのない幸せに満ちていたか、少し自信がなかった。

ガス灯をしばらく黙って見つめていた慎次君は、また歩き始めた。
秋風に押されるように神楽坂を降り、飯田橋駅を過ぎて教会の前を通る。
オフィス街を相手に昼間賑わう飲食店もほとんど店じまいしていて、死んだようにしんとしている。
金木犀の香りが強く匂ったけれど、どこで咲いているのかは結局わからずじまいだった。
駅の東口方面にかけて無数にある居酒屋から時折賑やかな声が響く中を、あまり言葉も交わさずに歩いた。
靖国神社を過ぎ、歩道橋を渡って私達はあの日と同じように北の丸公園にたどり着く。
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