文【ささやこ3】

□あついなつ
1ページ/1ページ

 吸い込む空気が熱くて、熱くて。
 咽喉にへばりつくその熱気に辟易した。
 ついでとばかりに吸い込んだ煙草の煙が、そんな苛々を解消してくれるはずもなく。
 彼はひとり静かに、溜息を吐き出した。

 夏特有の湿気と熱気を孕んだ空気は、空が赤く染まっていても容赦なく身体を攻め立てていた。
 陽が落ちたから涼しい、というわけではなくて、昼間散々温められたアスファルトからの熱気がまだ籠っている。
 ゆるい風も吹いてはいるが、熱気を押しやるほどではない。
「……暑ぃな…」
 携帯灰皿で煙草をもみ消して、藍と茜が交わるあたりを不意に見上げると、飛行機雲が一本伸びていた。
「わ、すごい! 月に向かって一直線ですねっ!」
 不意に背後から聞こえた声に、彼は瞬きしてから振り返る。
 見下ろせば、想像した通りの人物がそこに立っていて。
 その瞬間に、暑さも苛々も、全部吹っ飛んだ。
「こんにちは…あ、こんばんは、笹塚さん。今日って、約束してましたっけ?」
 首を傾げて問いかけてくる少女を見下ろしながら、彼はいや、と首を振る。
「約束はしてねーけど、今日夜店の日だったな、と思って」
 こういうイベント事が好きな彼女が自分を誘わなかったということは、もしかしたら学校の友達と出かける予定だったのかもしれない、と、彼はこの時初めて考えた。
「……あー、ごめんな、帰るわ。弥子ちゃん」
 くしゃりと頭を掻いて、踵を返した笹塚を見、弥子は咄嗟にそのシャツを掴んだ。
「えっ、なんで!」
 どさりとカバンが落ちて。
 拾うより先に、彼を引き留める方に天秤が傾いた。
「な、なんで帰っちゃうんですか? せっかく来てくれたのに…」
 妙に悲しそうに見えて、笹塚は軽く息を吸い込む。
「友達は?」
「…え? 叶絵ですか? 今日は一緒じゃありませんけど…」
 いきなり何を問われたのかわからなくて、弥子は眉を寄せた。
 彼が来たことと、叶絵に何の関係が?
「いや…約束とか」
「約束? えっと、私、笹塚さんとの約束忘れてますか?」
 シャツを握る指先に、ぐっと力が入った。
 彼との約束を忘れるなんて、なんて馬鹿なんだろう、と自己嫌悪に陥りかけた矢先に、彼から思いもよらなかった言葉をかけられた。
「あー…俺とは約束してないよ。だから、弥子ちゃん、友達と約束があるのかと思って…」
 外した? と小さく訊かれて、何度か瞬きする。
 ぽかんと開きっぱなしだった口を慌てて閉じた後、ぶんぶんと千切れそうな勢いで、首を振った。
「ごめんなさい! 夜店なんて、子供っぽすぎて付き合ってもらえるなんて思わなくって、約束しませんでした!」
 叫びながら、彼を見上げて、どこか驚いた様子の彼の視線を受け止める。
 彼はしばらくそのまま弥子を見下ろしていたが、ふと表情を緩めて「じゃあ」と唇を開いた。
「行こうか、夜店」
「――はい!」
 嬉しそうに返事した弥子が、きゅう、と抱き着いて笑う。
 そんな彼女の頭を撫でてから身体を離し、彼は落ちていたカバンを拾った。
 そのまま空いた手を弥子に差し出す。
 躊躇いなしに繋がれた手に、一度だけ視線を落として、彼はそっと笑った。


 暑い夏も、君となら、居心地のいい季節みたいだ。


***イイワケ
まあ、傍から見たら暑苦しかろうが問題ないわけですよ。幸せなら!

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ