短編集

□苦しい狂しい、
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まさか、あの馬鹿が。
嘘だろう。
最初はそう思い、月曜の授業の内容をノートに書くという作業を続けようとした。
けどやっぱ心配で、逆にあの馬鹿だから有り得る、だとか考えてしまう。
それに、
会いたいという気持ちもある。
もう一度携帯を見つめ直して、出勤用の服と暖かいコートに着替え、弟妹にわけを話し、闇に染まり始めている外に出た。
家の前の道路でちょうど走っていたタクシーを捕まえ、先程の電話で泳人が言っていた場所を行き先として伝えた。











あの馬鹿がいたのは、真っ白な一人部屋。
そう、病院だ。
いつも誰かといたアイツには有り得ないはずなのに。
けど、今一人ベッドに横たわっていたのは、確かにアイツだった。


「ハジメ、」

ゆっくりと瞼を上げる姿は、とても疲れているようだ。
けど、次の言葉で、現実の残酷さを思い知った。



「誰、ですか?」

嘘だ。
こんなの嘘だ。
なんで覚えてないんだ。
いつもなら、《先生!》とか言いながら抱き付いてきたり笑ってくるのに。
見たことのない無表情で、更に悲しくなった。
電話で伝えられると、現実味がないとは知ってはいたものの、現実との差がここまで激しいなんて。

「…覚えて…ないのか」
「すみません…」

"すみません"だなんて使ったことのない言葉なんか使いやがって。
勝手に記憶喪失になんかなるなよ、と言いたいところだが、今は言えない。
今言ったら、"この"ハジメに失礼だろうから。

「俺のこと覚えてるか」
「すみません…」
「…お前の先輩だ」
「先輩…?俺、学生だったんですか?」

その年で学生なんて有り得ないだろ、と思っても記憶喪失だからしょうがないんだ。
少し諦めかけていた時だった。


「……修、先生…」
「…な、お前…覚えてるじゃねぇか…!」
「…いや、口に出てきただけ…なんです」

嬉しさが一瞬で消えた。
でも、ハジメの脳が記憶してなくてもハジメの身体は覚えているのだ。
故に頬が緩んだ。

ゆっくりとハジメの手を取り、口付けを落とした。
どうか全て思い出すようにと。



ガラ…と病室のドアが開いた。
そこに見えたのは見慣れた水色とアイツと同じ栗色の髪。
遅かったのは、俺と違い電車やバスで来たからだろう。

「ハジメちゃん!」
「兄ちゃん!」

ここまで駆けてきた2人は、ハジメの顔を覗きこんだ。
けど、分かっていた。

「…ごめんね、君達は…誰かな?」

先程の俺と同じ様に、2人は驚いた顔をした。
でも俺とは違う。
諦めなかった。


「俺サイバー!ハジメちゃんのクラスの生徒!そして正義のヒーロー!」
「ヒーロー?凄いなぁ、頑張れよ」

俺にも見せたことない笑顔を見せんなよ。
なんでそんな優しいんだよ。
なんで敬語じゃないんだよ。
苦しい。
俺との距離が広過ぎる。


「俺は…翔…、兄ちゃんの…弟」
「…兄ちゃん?って俺のことかな?……ごめんね」

ハジメは少し申し訳なさそうな表情を見せたが、おいで、と翔に手招きをした。
翔本人もそうだが、俺やサイバーにも意味の不明な行動だった。

「兄ちゃ…ちょっ!」
「俺の弟かぁ…可愛いなぁ」

目の前でギュウと効果音がつきそうな程抱き付かれると、自分が抱き付かれているわけでもないのに恥ずかしくなる。
いつもならば、これほどではないが俺が抱き付く側なのに。
寂しいけど、やっぱり苦しい。

「うわぁ、髪凄いサラサラだね」
「でも兄ちゃんも同じだし…」
「そっか」

少しぎごちないが、兄弟に見える。

「暖かい…翔くんは凄く、一緒にいたい」
「え…」
「落ち着くね」

一瞬翔に殺意が沸いてしまったが、実の兄弟だから仕方ない。
やけにイライラが募る。
相手は記憶喪失だっていうのに。
それに、俺はこんなにもハジメが大切だっただろうか。
ハジメがハジメじゃなくなってから気付くなんて、俺こそ馬鹿だ。

ふと時計を見ると既に針は8時を指していた。

「サイバー、翔」
「何だよ、先生」
「もう遅いだろ、帰れ。親御さんが心配してんだろ」
「…翔、行こう」

「ダメ、行かないで欲しいな」

2人を止めたのは、俺らではなく…ハジメだった。
彼の寂しそうな顔が、俺の心につき刺さる。
その傷は酷く痛んだものの、俺の悪意のふりをし続ける俺の欲望は、また悪戯を続けた。

「ハジメ、例えお前が記憶喪失であっても大人だ。子供達が危険な羽目にあってもいいのか?…しかもお前の弟と生徒だぞ」

言ってから後悔はした。
けれど、こっそりと幸せな気持ちが膨らんだ。
まるで、犯罪者だ。

「…………そう…ですね」

俯いた顔にも、また膨らむ。

「ほらお前らも」
「DTOのケチー!」

「…バイバイ、兄ちゃん」
「またね」

翔に向かって手を降るハジメ。
翔の姿が俺と重なって見えた。

パタン。

ドアが名残惜しそうに絞まる。
そしてまた、二人きりの世界になった。


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