【Extra## Collection】
□《Aufheben》
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《Aufheben》
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「お茶でもどうです、先生?」
「…………。」
「……あの〜?センセイもしもーし??」
「ん?……ああ。済まない、信楽くん」
分厚い資料ファイルに落とす、雲を眺めているかのような遠い視線。
オレはその姿に見兼ね、"思考の行間繕う"といった形の言葉を投げ掛けている。
先生が深く考え込む姿は、別段珍しい光景でもない。寧ろ、日常だ。
……でも。
デスクに構える先生は、こんな心此処に在らずの状態が数日に渡り続いていた。
あの事件以来――というか、どうもあの矢鱈高圧的な検事と鉢合わせてからのような気がする。
検事と弁護士という真逆な立場だから、過去に法廷で嫌な思いをした人物なのかもしれない。
深く被り直した帽子の下で一瞬酷く痛々しい表情を、隣にいた俺は見逃してはいなかった。
こんな状態が続いても、先生に尋ねようとしない理由はそこにある。
蒸し返したくない思い出の一つや二つ、誰しも抱えているのだから。
(まぁ変に生真面目だからなぁ……将来は成人病よか痴呆性に注意だよ、ウチの先生)
給湯室で急須に茶っ葉を入れながら、御剣先生の余計な未来を案じていると、不意にドアのノック音。
それから少し遅れて、先生の"どうぞ"、という声が耳に届き。
俺は棚から来客用の湯呑みを取り出す。
"気の利く助手"の肩書はダテじゃない。
そこに『有能で』を追記されるのは、まだまだ先の話だろうけれど。
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―――私を見て、彼は笑った。
相変わらずとは言葉に出来ず、しかしこれほど近くに齢を重ねた彼が笑っている。
何事もなかったかのように、ただ。
「せっかく来てあげたのに、座ってイイとか言うつもりとかないのかなァ……信ちゃん?」
「いや…そんな事は───どうぞ、巌徒さん」
「センチメンタルな戸惑は、早く風化させないとダメだよ。身体に毒だからね」
そう返すと、彼は少し窮屈そうにしながらも、来客用のソファへ深く腰を落とし、長い脚を組んだ。
この声、この饒舌。
いかに穏やかな中にあっても、不思議に空気をざわめかす、この存在感。
何年ぶりだろうか。
顔を包むように蓄えられた豊かな髭が
、過ぎ去った歳月の重みを感じさせている。
それでも私の目には、あの当時そのままの彼が映し出されていた。
未だに古い友人とは括れない自分を、心底情けない男だと思いながら。
「……聞いたよ。狩魔クンから、キミのこと。色々と」
「ええ、つい先日に。こちらに異動されたんですね、狩魔さんも」
「ああ、そうだよ。かなり嫌な予感はしてたんだ。でも、こんなに早くカチあうなんてねぇ……吐き気がするほど、ボクはガッカリしているよ」
「巌徒さん……」
「逃げ出したのはキミのほう、だったのに」
「……………。」
「お蔭でボクらは、また振り出しだ」
口火を切った彼は、ただ一方的に今の心境を語る。
沸々と蘇る感傷など容赦なく、ズタズタに切り裂いて。
そしてこの、哀しみとも憎しみとも汲み取れない言葉達に、早くも私は言葉を失っている。
歴史にifはない――そう解ってはいても、私の胸奥に懇々と降り積もるのは、腐臭を放つ悔念ばかりだった。
「自分から呼び出しておいて、喋る意思がナイなんてねぇ……じゃあ、ボクが逆に尋ねてあげるよ」
やがて彼は、身を乗り出して僅かに目を細め、テーブルを軽く小突きながらそう言った。
読心術に長けた彼は、既に見透しているのであろう。
積年の悔念に沈む、この愚かな想いの"問い"を。
「幸福なフリをした偽善の結果、それが今の心境だろ?」
「……妻とは決して偽善の絆ではありません。それだけはハッキリと断言しておきます、巌徒さん」
「そうだねぇ、美談としても見事に成立するかな………キミがボクに未練さえ無ければ、だけどね」
「…………。」
「アハハ、図星だ!じゃあ、ココでボクのくわえてみてよ、あの時みたいにさ?今は気の利く傍観者も居ることだし」
「!!………。」
「ほら、お茶が冷めちゃうよ、有能な助手のキミ?」
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「―――あの時は前言撤回と呟いたよ。もちろん、おじさん心の中でだけどね」
「………………。」
「ありゃりゃ、息子さんまで反応一緒かい?参ったなぁ…ゴメンよ、怜侍くん。おじさん、昔から空気読むの苦手でさぁ」
……それは恐ろしく自然と口の上に乗った、思い出話の一つに過ぎなか
った。多少、後悔こそしてはいるが。
事実、あの時に感じた妙な違和感を、その息子にまで感じていることに憤りすら覚えていた。
だからこそ、こうも軽々しく身内の要らぬ過去を暴露してしまったように思う。
───解っては、いる。
自分の身の丈に合わない複雑な事情だとは。
吹けば飛ぶような路傍のいち弁護士が、その異質な世界に介入など出来やしないということは。
しかし知れば知るほど居心地が悪く、それらは決して他人事ではないのだと、このちっぽけな正義感を老婆心に変えている。
だから時折こうして、多忙な時間を裂いてもらっていた。
何とか腹を割って話しちゃくれないか───何時もその一言を詰まらせる淡麗な横顔を、今日もまた祈るような気持ちで眺めている。
やがて長く俯いていた怜侍くんがこちらを向いた時、その表情に愁いの色など微塵も無かった。
「………信楽さん」
「ん、なんだい?」
「局長は恐らく『弁証法』を用い、父に問い掛けたのだと思います。つまり、局長は自身の持つテーゼを投げ掛け、勿論父はそのアンチテーゼを示した」
「なるほどね。しかし、弁証法だとすればだよ?じゃあ"揚棄"をその助手に期待したのかな?」
「いえ。それは後に示されました……"死"を"救い"の総称とするアウフヘーベンは我が師、狩魔 豪によって」
「!!!それは、まさか……!?」
怜侍くんは微かに頷き、深く一礼して背を向ける。
それは最大の返礼であり、こんな不良中年の老婆心をやんわりと拒否した姿。
流石に信さんの息子だけあって、彼もまた血統書付きの頑固者な訳だ。
しかしそれ以上に、おじさんは結構な粘着系の人間なんだと教えておいた方が良いだろう。
今後の為にも。
「"他人の秘密を知るな、知ろうとするな、知らないフリをしろ”……おじさん若い頃に口酸っぱく言われてたんだよ、信さんに」
「………?」
「但し、この戒めには続きがあるんだ。『しかし、教えられたからには誠意を見せろ』……今でもこれ、おじさんの労働意欲の原点なんだよね」
怜侍くんは足を止め、薄い唇を緩ませながら振り向く。
時折、絵になるような笑顔を見せる所も信さんそっくりだ。
再び年代物のスープラに足を向ける背を見送りつつ、次は酒でも酌み交わそうかと考えている。
勿論、信さんの写真も同伴して。
――――End.
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