小説
□「風邪が治ったお祝いにキスして下さい。」と言ってみた。
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会えない時間の続きっぽいです。
昨日は学校を休んだ。
朝起きたら酷い頭痛と眩暈で、歩くこともままらならなかったからだ。
家に戻って1日中寝ていたが、夕方くらいにγ先生がお見舞いに来てくれた。僕はこのチャンスをどうモノにすべきかと思って本能のままにγ先生を部屋に連れ込んで、ベッドに押し倒そうと思った。
が、いきなりで拒否られたら気まずいのでそうはせず、結局先生の胴体にずっと横から抱きついている姿勢をとり続けた。(スキがあらばイタズラしてやろう、的な思考のもとで。)
結局僕はγ先生にうまいこと諭されていつのまにか眠っていた。
あのときもっと別のルートがあったはずだ、と何度も考えた。
例えば先生と自宅でエッチとか、先生と自宅でエッチとか、先生と自宅でエッチとか。
考えることはそればっかりだ。
あぁ、どこをどう修正すれば、僕はあの時、あの場所で先生と結ばれていただろう。何が悪かったんだろう、と自分の行動の一つ一つを振り返る。
だけど浮かんでくるのは彼の、
『お前が寝るまでここにいてやるから。』
と言ったときの、優しそうな微笑なのだ。
笑ってるのか、笑ってないのか、その中間くらいの微妙な口元の笑みを思い出すたびに、恥ずかしくなってそこで妄想は止まってしまう。
…僕は何を考えてるんだ、なんて。
いや、僕はγ先生のことをめちゃめちゃにしてやりたいだけだ。性的な意味で。
あんな優男の一瞬見せた隙のような微笑に惚れただなんて、誰が認めるか。
…とか思っているうちに、今日もいつのまにか化学準備室の前まで来ていた。
(先生に迫ってみよう、キスして下さいって。)
僕は覚悟して、化学準備室のドアを開けた。
___「風邪が治ったお祝いにキスして下さい。」と言ってみた。
失礼します、とは言わずに、そっとドアを開けて中に侵入した。
γ先生は僕の侵入に気づいているのかいないのか、いつも机から顔を上げない。
彼はいつもここで、テストの採点だとか、授業で使うプリントを作っている。たまにコーヒーなども飲んでいるので、僕は彼のデスクに飲みかけのコーヒーがあるたびにこっそりそれを飲んで、
(間接キスだし)
と思って、一人性的満足を得ていた。(もちろんγ先生に気づかれないようにやっている)
今日、彼は机の前にいなかった。まわりを見渡しても、ここには誰もいない。
職員室か、化学室のほうだろうか。
幸運なことに、今日は彼のデスクの上に飲みかけのコーヒーが置いてあった。
コーヒーの色がまだ良い。入れてからそう時間は経ってないんだろう。
僕は音を立てずに彼の机に近づいて、ゆっくり腰掛けた。ギシッという音がした。
(もしここで彼と椅子に座ったたままエッチしたら、椅子がギシギシいってエロイだろうな)
とか一瞬考えた。
γ先生の机の上は汚かった。
彼は、物を上に上に積む習性があるらしい。
目の前には本棚やら、引き出しやらあるのに、そこにしまわずに上へ上へ積んでいく。
いやしかし、今日僕が興味があるのはそれらではない。
僕は机の上のマグカップをとった。
コーヒーは半分くらいに減っていた。ブラックだ。
彼はコーヒーに砂糖を2杯入れる。(前に見ていたことがあったので知っていた)
ミルクも入れたらどうですか、味がまろやかになりますよ、とすすめてみたが、
「牛乳はあんまり好きじゃない」
的なことを返された気がする。
僕はコーヒーの水面に映った自分の顔を覗き見た。
(これから…僕はγ先生と間接キスします)
と心の中で一言言って、それからスーッと口をカップに近づけていった。
彼が口をつけたところはどこかな、なんて思いながら。
わからなければ、カップのふちを全部舐めればいいだけの話だ。
だけどそのときの僕は、どれほど変態じみているだろうか、と未来の変態・イリエショウイチを想像してみる。
いや、もうこの時点で変態なんだよ。
可愛い女子ならばともかく、自分より年が10歳ばかり上の男性の飲みかけのコーヒーに口をつけようとしている。
しかも、間接キスが目的で。
「オイ」
あと1センチ、というところで、静止の声がかかった。
びっくりしてちょっとコーヒーをこぼしそうになった。
「何やってんのかなぁ、入江クン。」
ちょっとイライラした様子のγ先生が立っていた。
化学室と、化学準備室をつなぐ扉の前で。
「γ先生…」
「俺のコーヒー、勝手に飲むなって言っただろうが。」
そう言って、僕の手から無理矢理マグカップを回収して、僕を椅子から退けた。
「風邪が良くなったと思ったら、すーぐこれだよ。お前は。まったく、油断もすきもありゃしねぇ。」
先生は椅子に腰掛けて、コーヒーを一口飲んだ。
「あと、勝手に化学準備室に入るなっていつも言ってるだろう。ここにはすごく危険な薬品なんかもたくさんあるんだよ。」
…今日はよくしゃべるな、と思って聞いていた。
視線は、先生がいましがた置いたマグカップに行っていた。
彼が口をつけたところを、僕はじっと見つめていた。
まだ唾液のあとが見える。彼は、あそこに口をつけた。
「コーヒーが欲しいんなら新しいの入れてやるからよ。」
「…そうじゃない。」
僕はマグカップから視線を動かさないまま、静かに言った。
「あ?」
「僕は、僕は先生の飲んだそのコーヒーが飲みたかったんだ。」
「間接キスが出来るから、だろ?この前聞いたよ。しかもお前この前勝手に俺の許可なしに間接キス成功させてただろうが。もうあれで十分だろ。」
「ダメだ。」
「何がダメなんだよ。」
先生はギシッと音を立てて椅子を回転させ、僕のほうを向いた。
「僕は先生と間接キスできた。でも僕はそのコーヒーを全部飲み干してしまったから、γ先生は僕と間接キスしてない。」
「なんだよそりゃぁ。別に俺、入江クンとキスしたくないですけど。」
「…このツンデレ。」
「何がツンデレだよ。」
黙ってじっと見つめているとふいに、ふっと彼が微笑んだ。
「風邪は?もう良くなったのか?」
…あぁ、これだ。
めくるめく僕の妄想ワールドに歯止めをかけている、魅惑の笑顔だ。
この笑顔の先に僕は行けない。
この笑顔から先で、僕は彼を性的な意味でめちゃめちゃにしてやれないのだ。(自分の頭の中のことだけなのに、情けない。)
最初から、彼は怒ってなんていなかったんじゃないか。
なんだよ、大人の余裕。
僕だけが焦ってたんだ。
勝手にコーヒーを飲もうとしたことで、彼を怒らせてしまったんじゃないか、って。
何も言わずにいると、γ先生は残りのコーヒーをグーッと飲み干した。
あぁ、もったいない。
飲みたかったのに…
「入江、お前、案外部屋をキレイにしてるんだな、男のくせに。」
「…そりゃ、いつでも先生が来ていいように片付けてたんですよ。僕の初体験は、先生の部屋か、僕の部屋で行う予定ですから。」
「バカなこと言うんじゃねぇよ。」
頭をポン、と叩かれた。
「ほら、もう5時だ。そろそろかえらねぇと、日が暮れる。」
「そしたら薄暗い部屋の中で、エッチなこと出来ますね。」
「だからしねぇ、って。」
「ねぇ先生、風邪が治ったお祝いに、キスして下さい。」
ずっと思っていたことを口に出した。
γ先生は目を丸くして、一瞬動きを止めた。そして一言、
「…バカなこと、言うんじゃねぇよ。」
と、僕から視線をそらした。
…それだけで十分、心が満たされた。
薄暗い部屋の中で彼の表情はハッキリとは読み取れなかったけれど、きっと少しだけ赤くなっていたに違いない、とか考えてみる。
それだけで、十分満たされた。
(所詮は妄想の範囲だけれど。)
「ねぇγ先生」
僕は背中から先生に抱きついた。
「バカなこと言ってすみません。風邪、よくなりましたよ。また化学の勉強、がんばりますね。」
そう言って、少しだけ強く彼を抱きしめた。
性的な意味でめちゃめちゃにしてやりたい、という気持ちがそのときばかりは少し和らいだような気がした。
視線が合わないことがこんなにも気恥ずかしく感じたのはこの日が初めてだった。
もうこっそり彼の部屋に忍び込んで、間接キスして興奮することはやめるだろう。今日以降。
今度こそ、本当のキスをしてやるんだ。(でもやっぱり性的な意味で。)